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#角名倫太郎
紫 憂 .
75
営業終了まで、あと三十分。
ラストオーダーが近づくと、店の空気は少し変わる。
帰る人は会計を気にし始めて。
残る人は、もう一杯だけ、とグラスを傾ける。
私はカウンターで伝票を確認していた。
「ナナ」
黒服に呼ばれる。
「高槻様、延長です」
「分かりました」
席へ向かう。
「おかえり」
「戻りました」
「ちゃんと戻ってきた」
その言い方に少し笑う。
「約束しましたから」
「偉い」
「そんなことで褒めないでください」
「じゃあ何なら褒めていいの?」
返事に困る。
「ないです」
「即答かあ」
高槻さんは肩を落とすふりをした。
「ナナちゃんってさ」
「はい?」
「自己評価、低いよね」
思わず笑ってしまう。
「急に何ですか」
「いや」
グラスを指先で回しながら続ける。
「褒めても流すし。否定するし。ありがとう、で終わればいいのに」
私は言葉を探す。
そんなこと、考えたこともなかった。
「慣れてないだけです」
「何に?」
「褒められるの」
高槻さんは何も言わなかった。
珍しく。
少しだけ考えるような顔をする。
「じゃあ」
顔を上げる。
「今から慣れていけばいいじゃん」
軽い口調。
いつもの調子。
でも。
言っていることは、少しだけ真っ直ぐだった。
私は営業用の笑顔を作ろうとして、やめた。
「難しいですよ」
正直に言う。
「そう?」
「はい」
「俺は得意だけど」
「何がですか」
「褒めるの」
思わず吹き出す。
「自分で言います?」
「言う」
「自信ありますね」
「あるよ」
高槻さんは迷わない。
「ナナちゃんのいいところ、十個くらいすぐ言えるし」
その言葉に、胸が少しだけざわつく。
営業。
そう思えばいい。
お客さんがキャバ嬢を褒めるなんて、珍しくない。
そう思えばいいのに。
「じゃあ、一個だけ」
気づけば、そう言っていた。
高槻さんは少しだけ驚いて、すぐ笑った。
「一個でいいの?」
「十分です」
「じゃあ」
少しだけ私を見る。
ふざける顔じゃない。
「人によって笑い方、変えてるでしょ」
予想外だった。
「……え?」
「相手が話しやすい笑い方、ちゃんと選んでる。それって才能だと思うよ」
私は何も言えなかった。
そんなこと、意識したこともなかった。
「仕事だから」
小さく言う。
「うん」
高槻さんは頷く。
「でも仕事だからできることって、誰にでもできるわけじゃない」
その言葉は、お酒の席の軽さとは少し違っていた。
「ありがとう」
自然に言葉が出る。
「お」
高槻さんが笑う。
「今のは否定しなかった」
「……一個だけ、慣れました」
そう言うと、高槻さんは子どもみたいに笑った。
その笑顔を見て、私は少しだけ肩の力が抜ける。
でも。
その瞬間。
フロアの向こうで、会計を済ませた真瀬さんが立ち上がるのが見えた。
私は一瞬だけ視線を向ける。
本当に、一瞬だけ。
それだけだった。
それだけだったのに。
「見送ってくる?」
高槻さんがぽつりと言った。
私は返事をしなかった。
できなかった。
コメント
1件
お疲れ様です、みぅです🥀 第48話、読み終わりました…。 高槻さんの「褒めるの得意」「十個すぐ言える」って言い切るところ、ちょっと強気だけど嘘じゃない感じが伝わってきて、胸があったかくなりました。 ナナが「一個だけ」って素直に乗ったのも、すごく意味のある一歩だなって思う。 それに、「人によって笑い方変えてる」って気づいてくれたのが、ちゃんと仕事の話として届いてるのがいいな〜。 仕事だからって自分を否定しすぎないでいいんだよって言われてるみたいで、ちょっと泣きそうになった。 最後の真瀬さんの一瞬の視線…あの空気、すごく苦しいし、好きです。 丁寧に紡いでくれてありがとうございます🖤