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空乃 美晴
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雨晒しの原稿用紙
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昼休みの終わりぎわ、クリストルンは資料室にいた。
新人研修の一環で、過去の商品に目を通しておくよう言われたのだ。棚いっぱいに並ぶ商品台帳、販促写真、古い企画書。紙とインクの匂いの中に、会社が積み上げてきた年月が静かに沈んでいる。
「これ全部、玩具の履歴書みたい」
小さくつぶやきながら、クリストルンは一冊ずつめくっていく。
動物シリーズ、季節限定シリーズ、知育玩具、記念復刻版。
どれも工夫されているのに、ときどき胸に引っかかる商品がある。売れた理由だけでなく、売れなかった理由も残っていて、それが人の失敗談みたいで妙に愛しかった。
ふと、手が止まる。
見開きに映っていたのは、クリーム色のくまだった。胸元に椿の刺繍。商品名は、ただ一言。
「椿……」
写真を引き寄せた瞬間、呼吸が浅くなる。
耳の縫い目が、見覚えのある形をしていたのだ。
丸みを殺さず、でも甘すぎない。片側だけ、ほんの少しだけ内側へ沈める癖。
月椿堂で、モンジェが修理をするときに出る縫い目とそっくりだった。
「なんで……」
胸がざわつく。クリストルンは慌ててスマートフォンを取り出した。あとで父に見せれば、何か分かるかもしれない。
けれど、シャッターを切る前に低い声が飛ぶ。
「撮るな」
びくりとして振り向くと、入口にディトが立っていた。
開発主任、と紹介された男だ。背は高くないが、視線が鋭い。無駄話を嫌いそうな顔をしていて、実際、必要なことしか言わない。
「すみません。気になってしまって」
「資料室の持ち出しも無断撮影も禁止だ」
「でも、これ」
「ルールはルールだ」
ぴしゃりと言われ、クリストルンは渋々スマートフォンをしまった。
ディトは棚の近くまで来ると、クリストルンの視線の先を見た。商品写真を確かめた途端、表情がほんのわずかに固まる。
「……それに触るな」
「そんなに大事なものなんですか」
「廃番品だ」
「でも、ただの廃番品って顔じゃないです」
思ったまま口にすると、ディトの眉がぴくりと動いた。
「新人」
「はい」
「勘が働いても、飛び込む場所は選べ」
「選んだ結果がここです」
「選び直せ」
言い捨てるようにして、ディトは台帳を閉じた。
その手つきは乱暴ではなかった。
むしろ、壊れ物を隠すみたいな慎重さがあった。
資料室を出る直前、クリストルンは棚のすき間からもう一度だけ写真を見る。
くまは黙ったままだ。
それなのに、何か言いかけているような気がした。
帰り道、胸ポケットのリボンに触れながら、彼女は思う。
白椿トイズには、まだ見えていない顔がある。
そして、その顔はきっと、父につながっている。