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#現代ファンタジー
るるくらげ
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監察院を出たとき、夜はもう底まで冷えていた。
石段を下りる足の裏から、白い硬さが伝わってくる。ロビサは外套の前をきつく合わせたが、胸の内側でざわついているものまでは温められなかった。母の筆跡に似た紙片。ハディジャの手の甲へ浮かんだ封印文字。三年前の傷を、よりによってヴィットリアーナの前で抉り返した自分の声。
監察院の玄関脇で、モンシロが短く言った。
「今夜は解散だ。だが朝一番で局へ来い」
「ハディジャは」
「監察院が別室で経過を見る」
「別室、ですか」
「牢へ入れるよりはましだ」
言い方は淡いが、まし、というだけで安心できる響きではない。
モンシロはロビサの顔を一度見て、視線をわずかに和らげた。
「お前は顔色が悪い」
「徹夜しただけです」
「それだけなら、その顔にはならん」
班長はそれ以上追及せず、代わりに行き先を先回りするように言った。
「教官のところへ行くなら、坂道の凍りに気をつけろ」
ロビサは驚いて目を上げたが、モンシロはもう背を向けていた。
昔からこの人は、見ていないようで見ている。
学院裏の古い煉瓦棟には、夜更けでも小さな灯りが残ることがある。記録官養成学院の教官室の一角を、いまは被害記録局顧問のレイノルデが使っていた。戸を叩くと、すぐに中から低い声が返る。
「開いている」
室内は、紙とインクと薄い茶葉の匂いがした。積み上がった文書の山は高いのに、不思議と散らかって見えない。レイノルデは暖炉のそばで眼鏡を外し、湯気の立つ小鍋へ薬草を落としていた。
「予想より早かったな」
「来ると思っていたんですか」
「来ないようなら、こちらから呼ぶつもりだった」
鍋の中で、琥珀色の湯がゆっくり揺れる。
言い当てられたことが悔しいのに、それだけで少し息がしやすくなるのが腹立たしかった。
レイノルデは椅子を指した。
「座れ。熱いものは、答えの代わりにはならんが、答えへ行くまでに手を震えにくくする」
「相変わらず、変な言い方ですね」
「そうか。今日は少し安心した」
強がりを返せた自分に、ロビサはそこでようやく気づいた。
椅子へ腰を下ろすと、張りつめていた肩が一気に重くなる。カップを受け取る指先が、わずかに震えた。
「……母の字に似た紙片が見つかりました」
レイノルデは頷くだけで急かさない。
「それから、ハディジャの手に封印文字が出ました。王城の地下へ通じる図面と反応して、器候補だとか、核を受けるとか、そんな語まで読めて……」
「なるほど」
「なるほど、で済ませないでください」
思ったよりきつい声になった。
けれど教官は眉ひとつ動かさない。
「済ませてはいない。ただ、順番を決めている」
「順番?」
「お前はいま、三つの恐れを同じ皿へ盛っている。母親のこと。ハディジャのこと。自分がまた何も守れないかもしれないということ」
湯気の向こうで、その目だけが静かにこちらを見る。
「先に、どれがいちばん痛い」
ロビサは返事ができなかった。
喉まで出かかったのは、母でも、封印文字でもない。蒼い鏡の欠片へ触れて以来、時折見てしまう最期の断片。その中に、まだ生きている人間の死が混じる恐ろしさ。今夜、ハディジャの顔を見た瞬間に重なった、あの見知らぬ終わり方だ。
「……ハディジャが」
声が掠れた。
「本当に、何かの器だったら」
「それで?」
「その先に、あの人の死がある気がして」
レイノルデはそこで、ようやく息をひとつ吐いた。
「昔と同じ顔をしている」
その言葉に、古い記憶が引きずり出される。
まだ幼かったころ。被害記録局へ連れて行かれた母の帰りを待ちながら、ロビサは学院の廊下でしゃがみ込んでいた。掌には、拾ってしまった蒼い鏡の欠片。青い鏡面には、見たこともない誰かの最期が次々に映り、最後に、まだ元気だった近所の魚屋の青年が血を吐いて倒れる姿が見えた。
怖くて、欠片を放り出した。
泣きながら、見なかったことにしたいと喚いた。
そのとき屈んで、飛び散った欠片を一枚ずつ布で包んだのが、若い日のレイノルデだった。
『見えてしまうのなら、見捨てない人になればいい』
叱られると思っていた。
化け物みたいだと言われると思っていた。
なのに彼は、拾い集めた欠片を箱へ納めながら、当たり前の明日の話みたいにそう言ったのだ。
『見ないふりは、一度覚えると上手くなる。お前はたぶん、上手くなりすぎる前に苦しむほうだ。なら、苦しいままでも誰かの名を残せる仕事を選べ』
あのときの言葉で、ロビサは救われた。
見えてしまうこと自体が救いではない。見えたあとで、自分が何者でいられるかを決め直せたのだ。
カップの縁へ視線を落としたまま、ロビサは小さく言った。
「先生、私、また見たんです。ハディジャの顔の向こうに、知らない最期を」
「見えたから切り捨てるのか」
「切り捨てたくありません」
「なら答えは出ている」
レイノルデは机の上に置かれた封筒の山を整えながら、淡々と続けた。
「恐れていい。だが、恐れた順に手放すな。誰を見捨てたくないかで選べ」
「……先生は、いつもそうやって無茶を言います」
「無茶ではない。職能だ」
少しだけ口元が緩む。
その程度の笑みなのに、部屋の寒さが緩んだ気がした。
*
【続】