昴の机の上には、空白の楽譜が広がっていた。
その白い紙面には、今日から翔のためだけの旋律が生まれる予定だった。
――他人のためではない。翔のためだけの曲。
ペンを握る手に力を込める。
指先から生まれる音符は、誰の目にも触れない。
ただ、翔だけに届くための旋律。
練習室でピアノの前に座る翔を思い浮かべる。
無愛想な顔の奥に、時折見せる弱さ。
その全てを、自分の音で包み込みたい――その思いが、指を震わせる。
「昴……」
声が聞こえた気がした。だが、もちろんここには誰もいない。
――そうだ、音符が翔に届く。心で、呼吸で。
数日後、練習室で翔は譜面を開く。
昴が書き上げた旋律を前に、彼の指先が震える。
「……お前の音が、ないと……俺は、死ぬ」
低く、震えた声で呟くその言葉に、昴は息を飲む。
胸が甘く締め付けられ、同時に恐怖が背筋を走る。
――死ぬ? 俺の音で?
しかしその言葉の裏には、深い依存と信頼があることを、昴は理解した。
ピアノの鍵盤に触れる翔の指先を思い浮かべながら、昴は譜面にさらなる音符を書き込む。
強く、優しく、時に切ない旋律。
全ては翔だけのために。
練習室で二人が向き合うと、空気は濃密になった。
呼吸の一つひとつが互いに重なり、旋律に溶けていく。
翔の瞳がわずかに潤み、指先が鍵盤を押すたびに、昴の心も震える。
「……お前の音、俺の中にある。消えたら、俺はどうなるか分からない」
無防備に吐かれたその言葉に、昴は恐怖と歓喜を同時に味わった。
音で生きる、音で繋がる。
誰にも触れさせたくない、二人だけの世界。
譜面の白紙は、今や二人だけの証となる。
鍵盤に残る指跡、息遣い、視線の交差――全てが旋律に刻まれる。
昴は胸の奥で覚悟を決める。
――この曲は、翔だけのもの。
外界の誘惑も、他人の声も、関係ない。
二人だけの譜面に、二人だけの音が鳴る限り、世界は完璧なのだ。
夜が更けても、練習室には二人だけの旋律が漂う。
甘く、危うく、そして確かに依存の香りを含む音が、無言で二人を包み込んでいた。