テラーノベル
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夜になると、家は急に広くなる。広くなるのに、逃げ場だけはどこにもなかった。
夕方の騒ぎの余熱は、もう完全に消えている。
兄弟たちの声も、母の足音も、家のどこにも残っていない。
ただ、「何も起こっていない」ふりだけが完璧に整っていた。
遥はひとり、散らかった部屋の真ん中に立っていた。
床には靴跡。
壁には薄い擦り傷。
倒れた椅子と、乾き切った血のような色の水滴。
壊れたものだけが、事実を証明している。
けれど。
誰も片づけろとは言わない。
誰も声をかけない。
誰も見に来ない。
放置されていることそのものが罰だった。
遥は、まず椅子を起こす。
背もたれのネジがゆるんでいて、ぐらりと揺れた。
指先で押さえた瞬間――
この家の中で自分だけが“壊れかけているものを支えている”のだと、妙に実感した。
次に散らばった紙を拾う。
破れた部分から、家族の声がまだ残っているような気がして、息苦しい。
台所で水を含ませた布を絞りながら、遥はふと気づく。
――これ、いつからずっと自分の役目になっていたんだろう。
怒鳴り声が終わったあと、
暴力が引いて静かになったあと、
必ず“後始末”だけが自分に残される。
壊れたものを直す。
床をきれいにする。
物の位置を戻す。
証拠を消す。
家族の誰も、それを手伝わない。
まるでそれが「当然」で、「担当者」が決まっているように。
布を動かすたび、床のざらつきが指に残った。
擦り続けても、汚れは意地の悪い影のように完全には消えない。
頬を伝った汗か涙かわからない液体が、顎の先で冷たくなった。
ふいに、背中の方で家が軋む。
ただの温度差の音なのに、遥の体はびくりと震えた。
誰もいない。
けれど、
誰も止めない。
誰も見ていない。
だからこそ、いちばん苦しい。
“見ていない=気にしていない”
“気にしていない=存在しないのと同じ”
沈黙の中で片づけ続けると、徐々に胸の奥が空洞のようになっていった。
この家は、遥が血を流しても涙を落としても、
音を吸い込むだけで、返してはくれない。
いつの間にか綺麗になった床の上で、
遥は布を握ったまま立ち尽くした。
「……終わった」
声に出した瞬間、自分がひどく弱い生き物に思えた。
“誰も見ていないところで壊れる”ことすら、この家は許してくれない。
だから泣き声は、喉の奥で押しつぶした。
泣いた証拠を残せば、また自分で片づけなければならないから。
夜は深まるほどに、音がなくなる。
その静けさの中で、遥だけが呼吸の仕方を忘れそうになっていた。
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