テラーノベル
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事務室は、いつもと変わらなかった。
プリンターの低い駆動音。
紙を揃える乾いた音。
事件の重さとは無関係に、時間だけが均一に流れている。
澪は、昨日の資料を手に取っていた。
男の供述。
整えられた年表。
要点だけを抜き出したまとめ。
――整いすぎている。
それは、もう「違和感」という言葉では足りなかった。
誰かの意図が、はっきりと触れられる距離にある。
「それ、まだ確認しているのか?」
背後から、穏やかな声がした。
振り返ると、伊藤がファイルを抱えて立っている。
いつも通りの、少し眠たそうな目。
距離も、表情も、変わらない。
「はい」
澪は短く答えた。
「少し、気になる点がありまして」
「事件としては、もう十分整理されているよ」
伊藤は軽く首を傾げた。
「表向きには、だが」
「……“表向き”だからこそです」
澪は、視線を逸らさなかった。
「動機も、行動も、反省も、説明は全部揃っている。でも、揃い方が……本人の感情じゃない気がします」
「理解されるための形、ということだな」
その言葉に、澪は一瞬だけ息を詰めた。
「……はい」
伊藤は否定も肯定もせず、ファイルを棚に戻した。
「澪さん」
穏やかなまま、名前を呼ぶ。
「これ以上踏み込むと、その方は“別の意味で”壊れる」
「別の意味、ですか?」
「罪かどうか、という話ではない」
伊藤は静かに続ける。
「“自分は何をした人間なのか”という部分」
澪は、言葉を失った。
「警察も、裁判も、そこまでは扱わない」
伊藤は机に手を置いた。
「だが、探偵がそこに触れると、戻れなくなることがある」
「……それでも」
澪は、かすかに声を強めた。
「真実に近づいているなら、止める理由にはならないと思います」
伊藤は、その言葉を受けて、初めて澪を正面から見た。
ほんの一瞬。
だがその視線には、長い経験が滲んでいた。
「真実が、人を救うとは限らない」
それは忠告でも、命令でもない。
ただの事実だった。
「ここまでにしないか」
静かに、しかし明確に言う。
「この件は、すでに解決済みだ」
澪は、資料に視線を落とした。
確かに、表向きは終わっている。
依頼は完了し、誰も告発されない。
それでも。
「……分かりました」
澪はそう答えた。
今は、これ以上進めない。それも事実だった。
「ありがとう」
伊藤は、まるで気遣いに対する礼のように頭を下げ、事務室を出ていった。
残された澪は、しばらく動かなかった。
資料を閉じる。
だが頭の中では、別の年表が組み上がり始めている。
語られなかった動機。
与えられた説明。
整えられた感情。
それらを結べば、確かに別の事件が成立する。
――そして、それを「ここまでに」と言える立場の人間。
澪は、事務室の扉を見た。
そこには、何の変哲もない日常が続いている。
だがその裏側に、触れてはいけない線があることを、澪はもう理解していた。
資料は棚に戻された。
事件は、終わったことになっている。
けれど澪の中では、確かに線が引かれた。
越えてはいけない線が、ここにある。
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