教室の電気はついていない。
窓の外の明るさだけで、机の輪郭が見える。
生徒は座るなり、
「大丈夫です」と言った。
まだ何も聞いていないのに。
遥は反応しない。
「平気なんです。別に。嫌なこととか、そんなにないし」
早口でもない。
でも、止まらない。
「友だちもいるし。家も普通だし。困ってることって、言われると……」
言葉が途切れる。
「……ないです」
遥は、机の上に視線を落としたまま聞く。
「でも?」
生徒は、すぐに返せない。
沈黙。
「でも、ずっと気を張ってる感じがして」
小さく出た。
「何が起きても、“平気”って顔してると、そのままになるんです」
指先が机を軽く叩く。
無意識のリズム。
「しんどくても、大丈夫って言うし。嫌でも、平気って言うし」
一拍。
「気づいたら、本当に分かんなくなって」
声が少しだけ低くなる。
「どこまでが平気で、どこからが無理なのか」
遥は、ゆっくり息を吐く。
「平気な顔、便利だからな」
生徒は顔を上げる。
「はい」
即答だった。
「崩れないやつは、崩れない扱いされる」
静か。
「一回も崩してないなら、周りは更新しない」
生徒は黙る。
「でも、崩し方が分からないです」
素直だった。
「いきなり泣くとか、無理だし。怒るのも、違うし」
遥は少し考える。
「崩さなくていい」
生徒が目を瞬く。
「“平気じゃない部分”だけ、出せ」
「部分……」
「全部じゃなくていい」
遥は続ける。
「10あるうちの、1だけ」
机の端を指でなぞる。
「“ちょっと疲れてる”とか。“今日は静かにしてたい”とか」
一拍。
「平気のままでも、混ぜられる」
生徒は、長く息を吐いた。
「……それなら、できるかもしれない」
「一回でいい」
遥は言う。
「平気100のやつが、平気90になるだけで」
少し間。
「周りは気づく」
生徒は立ち上がる。
椅子の脚が小さく鳴る。
「……平気な顔って、やめなくていいんですね」
「全部はな」
遥は短く答える。
「でも、貼りつけっぱなしだと、顔の方が本物になる」
生徒は苦笑した。
扉の前で止まる。
「……1だけ出してみます」
遥は頷かない。
「そうか」
扉が閉まる。
教室に残るのは、
まだ落ちきらない光と、
使われていない椅子。
遥は、しばらく動かない。
“平気”という言葉だけが、
静かに残っていた。






