伊藤は、いつも通り出社した。
少し早めの時間。
探偵社の鍵を開け、照明をつけ、窓を一枚だけ開ける。
朝の空気を入れるのは、昔からの癖だった。
コーヒーを淹れ、資料棚を確認し、前日の書類を机に並べる。
どれも、特別な意味はない。
ただの作業だ。
「おはようございます」
最初に来たのは玲だった。
「おはよう」
「今日の予定、確認しますね」
玲は端末を操作しながら、淡々と読み上げる。
伊藤はそれを聞きながら、ホチキスの位置を直していた。
「午前中は書類整理、午後から新規依頼の初動」
「了解」
短い返事。
いつもと同じ調子。
やがて燈と真琴が来て、事務所は普段の空気になる。
誰も、伊藤を特別に見ない。
声のかけ方も、距離感も、変わらない。
——それでいい。
伊藤は内心でそう思った。
今回の事件は、終わった。
探偵社としての結論も出た。
依頼人も納得し、書類も整っている。
余計なものは残っていない。
伊藤は、ひとつのファイルを開いた。
今回の事件の最終報告書だ。
ページをめくり、記載内容を確認する。
事実関係。
判断の根拠。
経緯の整理。
どこにも、嘘は書いていない。
省いたものはあるが、書いたことはすべて正しい。
——正しい形に、整えただけだ。
澪が席に着いたのは、その少し後だった。
「おはようございます」
「おはよう」
伊藤は顔を上げずに返す。
澪の足音が、以前より少し遠く感じる。
だが、それについて考えることはしない。
考えない、と決めている。
「伊藤さん、これ……」
澪が書類を差し出す。
机の端に、そっと置く。
「ありがとう」
伊藤はそれを受け取り、軽く目を通した。
「問題ないね。このままでいこう」
「はい」
澪はそれ以上言わず、席に戻る。
背中に、視線を感じることもない。
——距離があるなら、それでいい。
伊藤にとって、距離は扱い慣れたものだった。
人と人の間にある線。
越えない線。
越えさせない線。
それを保つことは、
感情よりも、ずっと簡単だ。
午後、新しい依頼の概要が共有される。
軽い内容。
表向きは単純な調査。
探偵社としては、日常の延長だ。
「じゃあ、いつも通りで」
「了解」
「任せて」
探偵たちのやり取りを聞きながら、
伊藤は静かにメモを取る。
必要な資料。
過去事例。
確認事項。
頭の中では、すでに整理が始まっていた。
——この仕事も、きちんと終わらせる。
それだけだ。
夕方、全員がそれぞれの作業に戻り、
事務所は静かになる。
伊藤は、今回の事件ファイルを棚に戻した。
背表紙を揃え、
他のファイルと高さを合わせる。
違和感はない。
並びは整っている。
それを確認してから、伊藤は照明のスイッチを一つ落とした。
「今日はここまでかな」
誰に言うでもなく、そう呟く。
この探偵社での仕事は、まだ続く。
明日も、
次の依頼も、
その次も。
何かが暴かれる予定はない。
誰かが壊れることもない。
伊藤は鞄を手に取り、
事務所を出る前に一度だけ振り返った。
整った机。
静かな空間。
“余白”のある場所。
「……問題なし」
小さくそう言って、伊藤は扉を閉めた。
その背中を、誰も止めなかった。






