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朝の探偵社は、いつもと同じだった。
早すぎず、遅すぎない時間。
郵便受けには数通の封筒があり、コピー機のランプは待機状態のまま光っている。
伊藤は一番最初に来て、机を拭き、書類棚を確認した。
事件番号。年代。依頼内容。
どれも、きれいに揃っている。
やることは、いつも通りだ。
澪が入ってくると、伊藤は軽く視線を上げた。
「おはよう」
「……おはよう」
それだけ。
以前と変わらないやり取りだった。
だが澪は、事務室の奥にある棚を見た。
事件ファイルが、静かに並んでいる。
裁判記録が薄かった事件。
証言が揃いすぎていた事件。
被害者がいないと言われた事件。
犯人が最初から名乗り出ていた事件。
どれも、解決している。
報告書も、結論も、依頼人の納得も、すべて揃っている。
――問題は、そこだった。
「伊藤さん」
澪が、珍しく先に口を開いた。
「過去の事件、整理したの?」
「したよ」
伊藤は、椅子に腰を下ろしながら言った。
「放っておくと、分かりにくいからな」
「……分かりにくい、って?」
伊藤は、少し考える。
「人が関わった事件は、説明が増えすぎる。
感情とか、噂とか、言い切れない部分とか」
澪は黙って聞いていた。
「でも、全部残す必要はない」
伊藤は淡々と続ける。
「裁判や調査で必要なのは、事実関係と結論だ。
それ以外は、時間が経てばノイズになる」
「……だから、削った?」
「削った、というより」
伊藤は、棚から一冊のファイルを抜き出した。
「残る形を選んだ」
ページを開く。
年表。
要点。
判断理由。
どれも、過不足がない。
「出来事そのものは、消してない。
裁判記録も、判決も、公式な書類も、全部そのままだ」
伊藤は言う。
「ただ、どう理解されるかを整えただけだ」
澪は、胸の奥が冷えるのを感じた。
「……それ、どこまで?」
伊藤は視線を逸らさない。
「警察の聴取が始まる前から、だな」
「え」
「弁護士、記者、関係者。
説明を求められる場所には、必ず同じ情報が渡るようにした」
澪は理解していく。
同じ言い回し。
同じ構図。
同じ時系列。
だから、証言が揃った。
だから、報道は広がらなかった。
だから、記録は短く、読みやすかった。
「事実は変えてない」
伊藤は、少しだけ強く言った。
「嘘は書いてない。
罪をなすりつけてもいない」
「でも……」
「でも、だな」
伊藤は、言葉を重ねる。
「事実ってのは、そのまま置いとくと、勝手に膨らむ。
誰かが過剰に傷ついたり、別の被害が生まれたりする」
澪は、過去の依頼人たちの顔を思い出した。
納得して帰っていった人たち。
「これでいい」と言った人たち。
「だから、余白を削った」
伊藤は、静かに言った。
「想像される部分を、残さないように」
沈黙が落ちる。
探偵社の扉が開き、真琴たちの声が聞こえた。
いつもの朝だ。
「それで」
澪が、最後に聞いた。
「自分が、何をしてるか分かってる?」
伊藤は、少しだけ笑った。
「分かってるよ」
「それでも?」
「ああ。必要な仕事だ」
真琴が入ってきて、二人を見る。
「何かあった?」
澪は首を振った。
「ううん。整理の話」
「伊藤さん、几帳面だからね」
真琴は笑って、机に鞄を置く。
伊藤は、何も言わない。
ファイルは棚に戻される。
余白は、埋められたままだ。
探偵社は今日も依頼を受ける。
事件は解決される。
記録は残る。
そして――
残らなかったものについて、誰も困らない。
澪は、自分の席に座り、ノートを開いた。
書きかけのページがある。
そこには、何も書かれていない。
余白だけが、残っていた。
完