テラーノベル
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四月のはじめ、空気はすっかり軽くなっていた。
朝の光が窓から入ると、部屋の中の色が少しだけ明るく見える。
真白はキッチンのテーブルに肘をつきながら、ぼんやり外を眺めていた。コーヒーはもう半分くらい冷めている。今日は休みで、急ぐ理由もない。
寝室のドアが開く音がして、少ししてからアレクシスが出てきた。
「おはよう、真白」
まだ少し寝起きの声だ。
「おはよう」
真白は振り向く。
「遅いね」
「昨日遅くまで作業してた」
「知ってる」
アレクシスは椅子に座りながら髪を軽く整える。
テーブルの上のカップを見て、小さく笑った。
「もう冷めてる」
「さっきまで熱かった」
「嘘」
「本当」
アレクシスは新しくコーヒーを淹れ始める。豆を挽く音が静かな朝に広がる。
窓の外では、通りの木が薄く色づいていた。遠くから、子供の声も聞こえる。
春だ。
真白は窓を少し開けた。
柔らかい風が入ってくる。
「アレク」
「うん?」
「桜、咲いてる」
アレクシスが顔を上げる。
「どこ」
「向こうの通り」
アレクシスも窓のそばに来る。
まだ満開ではない。
けれど、淡い色が枝に広がり始めている。
しばらく二人で眺めていた。
「覚えてる?」
真白が言う。
「春になったら行くって言ってたの」
「覚えてる」
アレクシスは穏やかに答える。
「今日行く?」
真白は少し考えてから言った。
「うん」
「近くでいい」
「近くがいい」
アレクシスは頷く。
コーヒーをカップに注ぐ。
その湯気が、朝の光の中でゆっくり揺れた。
真白はソファに座り直す。
少ししてから、アレクシスも隣に座った。
距離は自然に近い。
真白は窓の外を見ながら言う。
「なんかさ」
「うん」
「こういうの」
言葉を探すように少し黙る。
「悪くない」
アレクシスが小さく笑う。
「急にどうした」
「別に」
真白は肩をすくめた。
「前はさ」
少しだけ視線を落とす。
「ずっと先のこととか考えてた」
「うん」
「どうなるんだろうとか」
真白はアレクシスを見る。
「でも最近」
静かな声で続ける。
「朝起きて、アレクがいて
コーヒー飲んで
仕事行って
帰ってきて」
少しだけ笑う。
「それで十分な気がする」
アレクシスは何も急がず聞いていた。
「十分?」
「うん」
真白は頷く。
「多分」
そして少し照れた顔で言う。
「俺、ここ好き」
部屋のことなのか、時間のことなのか、
それともアレクシスのことなのか。
全部混ざった言い方だった。
アレクシスは少しだけ真白の方へ体を寄せる。
「俺も」
短く答える。
真白は少し黙ったあと、ふっと笑った。
「じゃあさ」
「うん」
「このままでいよう」
「いいね」
「たぶんそれが一番いい」
外の風がもう一度部屋に入ってくる。
遠くの桜の色は、朝の光の中でゆっくり広がっていた。
真白はその景色を見ながら、自然にアレクシスの肩に少し寄りかかった。
特別なことは何も起きない。
でも、こうして並んでいる時間が、
静かに、確かに続いていく。
春は始まったばかりだった。