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相談室の椅子に座った相談者は、しばらく視線を床に落としたままだった。
言葉を探しているというより、出てくるものがない顔だった。
「今日は」
日下部が先に切り出す。
「……怒れないんです」
「怒れない」
「腹が立つことがあっても、何も出てこない」
沈黙。
日下部は促さない。
「後で思い返すと、
ひどいことだったなとは思います。
でも、その場では」
「無反応」
「はい」
日下部は一度だけ頷いた。
「怒りが“無い”んじゃない」
即座に言う。
「出てこない」
相談者がわずかに顔を上げる。
「出る前で止まってる」
「……止めてる、ですか」
「正確には、止まる癖がついてる」
日下部は机の上のペンを転がす。
「怒ると何が起きると思ってる」
「……面倒なことに、なる」
「誰かが不機嫌になる」
「関係が壊れるかもしれない」
日下部は否定しない。
「だから、脳が先に処理する」
「処理」
「怒りが立ち上がる前に、
これは感じなくていい、ってな」
相談者の喉が小さく動く。
「怒らなければ、自分は安全だと思ってる」
「でも」
相談者がかすれた声で言う。
「怒らないと、
自分が何をされたのかも、
よく分からなくなる」
「そうだ」
間を置かずに返す。
「怒りは攻撃じゃない。
境界線だ」
「境界線……」
「ここから先は嫌だ、
っていう感情だ」
日下部は視線を逸らさない。
「それが出てこない人間は、
踏み込まれても気づけない」
相談者の指先が、ゆっくりと握られる。
「じゃあ、
怒れるようになればいいんですか」
「無理に出すな」
即答。
「怒りを“作る”必要はない」
「……」
「ただ、
後から来た怒りを否定するな」
相談者は黙って聞いている。
「時間差で来る怒りは、
弱いと思われがちだが」
一拍。
「一番正直だ」
「でも、遅いです」
「遅くていい」
日下部は淡々と言う。
「感情に締切はない」
静かな沈黙が落ちる。
「怒りが出てこない人間は、
優しいんじゃない」
相談者が目を瞬かせる。
「自分を後回しにするのが、
上手すぎるだけだ」
日下部は書類を閉じた。
「今日はそれだけ覚えとけ。
怒れなかった過去を、責めるな」
「……」
「怒りは、後からでも追いつく」
相談者は小さく息を吐いた。
それは、初めて力を抜いた呼吸だった。