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久我という人物を調べ始めたとき、真琴は、意外なほど資料に“感情”がないことに気づいた。
経歴は綺麗だ。
表彰歴。昇進。担当事件の解決率。
どれも、警察官として理想的な線を描いている。
「……優秀だね」
玲が、淡々と言った。
「うん」
真琴も頷く。
「“問題を起こさない”優秀さ」
連続失踪事件の捜査指揮。
不正事件の一部捜査への関与。
どちらも、失敗とは記録されていない。
黒瀬は有罪。
不正事件は終結。
組織は揺れていない。
「結果だけ見れば、久我は“正しい側”にいる」
燈が言う。
「でも」
真琴は、久我の報告書をめくる。
「正しさの使い方が、ずっと同じ」
どの報告書も、構造が似ている。
事実は整理され、推測は控えめで、判断は上に委ねられる。
断言しない。
踏み込まない。
余白を残す。
「逃げてる、って言葉は……違うかな」
澪が言った。
「最初から、“ここまで”って線を引いてる」
真琴は、一つの古いファイルを開いた。
十年以上前。
地方署で起きた、冤罪が疑われる事件。
当時の久我は、若手刑事だった。
証拠は弱かった。
だが、空気は“決まって”いた。
早く終わらせるべき事件。
これ以上、掘り返すべきではない案件。
「久我は」
真琴は静かに言う。
「このとき、一度だけ……踏み込もうとしてる」
追加聴取の提案。
供述の再検証。
上申書の下書き。
だが、どれも途中で止まっている。
「止めたのは、上?」
燈が聞く。
「多分」
真琴は頷く。
「でも、最終的に引いたのは――久我自身」
その事件は、
冤罪の疑いを残したまま終わった。
誰も救われなかった。
だが、誰も責任を問われなかった。
久我は、生き残った。
「その経験が……」
玲が言葉を継ぐ。
「“学習”になったんだね」
真琴は、はっきり言った。
「正しさは、選ばなければ守れる」
選ばなければ、
誰かを切らなくて済む。
自分も壊れない。
組織も揺れない。
「久我は」
真琴は、資料から目を上げる。
「正義を捨てたわけじゃない」
ただ、正義を“自分が選ぶ立場”から降りた。
だから、
事実は揃える。
判断は渡す。
決断はしない。
連続失踪事件でも、同じだった。
黒瀬が何かを知っていると、分かっていた。
だが、聞かなかった。
聞けば、選ばされるから。
「……久我は、臆病だった?」
燈が、慎重に聞く。
真琴は、少し考えてから答えた。
「違う」
臆病なのは、逃げる人間だ。
久我は、そこに居続けた。
「壊れる場所を、知ってる人だよ」
玲が言う。
「一度、壊しかけたから」
真琴は、久我の写真を見つめる。
穏やかな表情。
理性的な目。
感情を外に出さない顔。
「久我は」
真琴は、低く言った。
「“踏み込まないことでしか、自分を保てない人”」
だから、黒瀬の沈黙に気づいていた。
そして――
利用しなかった。
黒瀬を救おうともしなかった。
だが、追い詰めもしなかった。
「……同罪、かな」
澪が呟く。
真琴は、首を横に振る。
「同じ“選ばなかった”でも、違う」
久我は、
自分を守るために、選ばなかった。
黒瀬は、
相手を選ばせないために、選ばなかった。
沈黙が落ちる。
「久我は」
真琴は、最後に言った。
「踏み込めなかったんじゃない」
踏み込まなかった。
それが、彼の生き残り方だった。
机の上に、二人の資料が並ぶ。
檻の中の男。
檻の外の男。
どちらも、
自分なりの“正しさ”からは、逃げていない。
真琴は、次のファイルに手を伸ばす。
次に見るべきは――
踏み込もうとした人間の、末路。
再調査者の死。
それは、久我が避け続けた場所の、現実だった。
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