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朝は、特別なことが起きる気配もなく始まった。
真白は目覚ましより先に目を覚まし、天井を一度だけ見てから起き上がる。窓の外は冬の薄い光で、街はまだ音を抑えていた。
「……早いな」
背後でアレクシスの声がする。眠りの名残を引きずった低い声だった。
真白は振り返らず、バッグの中身を確かめる。
「置いていくもの、ないから」
「それは“準備できた”って意味?」
「うん」
それ以上の言葉は要らなかった。二人で出かけるとき、計画はいつも最低限で、確認は短い。余白は歩きながら埋めればいい。
駅までの道は、吐く息が白くなるほど冷えていた。真白はコートの前をきちんと閉じ、マフラーを一度だけ整える。
アレクシスはそれを見て、何も言わずに自分の歩幅を半歩落とした。
電車は混んでいなかった。窓際の席に並んで座ると、景色がゆっくりと後ろへ流れ始める。
真白は外を見ているふりをして、実際には車内の温度や揺れを体で測っていた。慣れない場所へ行くとき、まず“安全”を確かめる癖がある。
「寒くない?」
アレクシスが聞く。
「大丈夫」
即答だった。
でも次の駅で、彼は自分のマフラーを外し、半分だけ真白の首元にかけた。
「共有、ってことで」
真白は一瞬だけ目を伏せる。拒む理由を探す前に、温かさが先に来た。
「……ありがとう」
それだけで十分だった。
昼前に着いた町は、静かで、観光地らしい派手さがなかった。古い商店が点在し、看板の色も控えめだ。
真白は足元を見ながら歩き、アレクシスは周囲を見渡す。役割分担のように自然だった。
小さな食堂で昼をとる。湯気の立つ器が運ばれてくると、真白の肩から少し力が抜けた。
「こういうの、久しぶり」
「“外で食べる”ってやつ?」
「うん。家でもいいけど……これはこれで」
箸を動かしながら、真白は言葉を選ぶ。
外で食べること自体より、“誰と”の方が重要だと、今さら気づいているのが少し照れくさかった。
宿は小さく、古いけれど手入れが行き届いていた。部屋に入ると、畳の匂いがして、窓からは低い山が見える。
「落ち着くね」
アレクシスが言う。
「……うん」
真白は頷き、バッグを置く。
知らない場所なのに、不思議と落ち着くのは、隣に同じ人がいるからだ。
夕方、近くを散歩した。特別な名所はない。ただ、川と、橋と、早く灯る街灯。
真白は歩きながら、ふと思い出したように言った。
「旅行って……疲れると思ってた」
「今は?」
「今は……」
言葉が途切れる。
アレクシスは待つ。急かさない。
「……悪くない」
短い答えだったが、嘘はなかった。
夜、部屋に戻り、二人で温泉に行く。湯気の向こうで、時間がほどけていく。
布団に入ると、外の音はほとんど聞こえなくなった。
「明日は?」
「明日、考える」
真白が言うと、アレクシスは小さく笑った。
「それでいい」
電気を消す。
暗闇の中で、二人の距離は、いつもより少しだけ近かった。
遠くへ来たはずなのに、帰る場所は、ちゃんと隣にあった。