テラーノベル
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その夜は、店ではなく蒼の部屋だった。
沙希はいなかった。
それでも部屋には人がいた。
五人ほど。
大学の近くのワンルームで、床に座って酒を飲んでいる。
テーブルの上にはコンビニの袋と空き缶が散らばっていた。
凪は最初から床だった。
壁の近く。
誰かが「犬は下でいいだろ」と言ったからだ。
それに対して蒼は何も言わなかった。
否定もしなかった。
それで決まった。
最初の一時間は普通だった。
酒を飲んで、くだらない話をして、動画を見て笑う。
凪は呼ばれるたびに動く。
氷。
水。
ゴミ。
灰皿。
言われる前にやることも多かった。
それを見て、誰かが言う。
「ほんと慣れてるな」
蒼はソファにもたれて、ぼんやり天井を見ている。
酔っているのか、少し目が重そうだった。
事件が起きたのは、そのあとだった。
女の一人が、蒼のスマホを取ろうとして落とした。
床に落ちる。
小さな音。
画面にひびは入っていない。
でも、その瞬間、女は凪を見る。
「犬」
凪は顔を上げる。
「なに」
女は言う。
「拾えよ」
凪は少しだけ止まる。
「それ、俺じゃない」
言いかけたところで、蒼が言った。
「いいよ」
部屋が静かになる。
蒼はゆっくり体を起こす。
凪を見る。
「お前のミス」
凪は戸惑う。
「俺?」
蒼は頷く。
「管理できてない」
言い方は、冗談みたいに軽かった。
でも、誰も笑わない。
凪は少し黙る。
それから頷く。
「……ごめん」
スマホを拾う。
蒼に渡す。
蒼は受け取らない。
「罰」
短く言う。
部屋の空気が少しだけ変わる。
誰かが小さく笑う。
蒼は足を組む。
それから凪に言う。
「こっち来い」
凪は近づく。
ソファの前。
蒼の足の間。
蒼は凪の顎を軽く指で上げる。
顔を覗き込む。
距離が近い。
息が触れる。
凪は少し目を伏せる。
蒼は言う。
「口」
凪は理解するのに少し時間がかかる。
それでも、ゆっくり口を開ける。
蒼はポケットからガムを出す。
一つ口に入れる。
噛む。
それから、凪の口の前で止まる。
数秒。
そのまま、凪の口に押し込む。
指で。
ガムはまだ温かい。
部屋で小さく笑いが起きる。
「うわ」
「マジでやるんだ」
蒼は凪を見下ろす。
「噛め」
凪は言われた通り噛む。
甘い味が広がる。
蒼はそれを数秒見ている。
それから、顎から手を離す。
「次は落とすな」
凪は頷く。
「うん」
そのあと、部屋の空気はまた軽くなった。
誰かが動画を流す。
誰かが笑う。
会話が戻る。
でも、凪の位置だけは変わっていた。
さっきより、蒼に近い。
ソファの横。
床。
蒼はときどき足で凪の肩を軽く押す。
邪魔だからではない。
ただ、そこにいるか確かめるみたいに。
凪は動かない。
ただ、そこにいる。
夜が終わるころ。
みんなが帰る準備をしている。
ドアの前で誰かが言う。
「蒼。完全に飼ってるじゃん」
蒼は少し笑う。
「別に」
靴を履きながら言う。
「壊れないから楽なんだよ」
凪はその言葉を聞いていた。
でも、何も言わなかった。
ただ、少しだけ笑っていた。