テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
1,715
#現代ファンタジー
るるくらげ
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
夕刻、さすがに二人とも足が重くなったころ、ハディジャが顎で通りの先を示した。
「寄ってけ。報酬の前払いみたいなもんだ」
「どこへ」
「食わせてくれる場所」
連れて行かれたのは、路地裏の広場へ半分はみ出すように建った小屋だった。大鍋から立ちのぼる湯気に、薬草と根菜の匂いが混ざっている。木の札には《エナシェ》と焼き印が押されていた。
小屋の前で腕まくりしていた女が、こちらを見るなり笑った。
「帰りが遅いと思ったら、今日はお役所のきれいな子まで拾ってきたの」
「拾われていません」
ロビサが即座に言うと、エナシェはますます楽しそうに目を細めた。
「いい返事。元気が残ってるならまだ大丈夫だね」
小屋の中は狭いが、鍋の前だけ妙にあたたかい。片隅では昼の兄妹が湯気の立つ椀を抱え、さっきよりいくらかましな顔色をしていた。ハディジャは彼らの前へ薬包を置き、やっと席につく。
「こいつ、薬代、また勝手に立て替えたろ」
エナシェが木椀へ煮込みをよそいながら言う。
「生きてるうちは返せるって教えてきた」
「自分には誰が教えるんだか」
「鍋の前で説教すんなよ」
「鍋の前だから言うんだよ」
ぽん、と軽く頭を叩かれ、ハディジャが不服そうに肩をすくめる。そのやり取りは、気安い家族のようでもあった。
ロビサの前にも木椀が置かれた。白豆と鶏の煮込みに、細かく刻んだ香草が散らしてある。慎重に匙を入れると、舌へ落ちた熱が、思っていた以上にやさしかった。体の芯へ、少しずつ戻ってくる温度だった。
「おいしいです」
思わず漏れた声に、エナシェが満足げに頷く。
「それならよかった。あんた、さっきから肩に力が入りっぱなしだからね。噛んでるうちに少し抜ける」
言われてみれば、確かに顎まで固くなっていた。向かいでハディジャが、椀を抱えたままにやにやしている。
「何ですか」
「いや。優等生さんも、ちゃんと腹が減るんだなと思って」
「あなたは私を何だと思っていたんです」
「紙とインクで生きるやつ」
「失礼にもほどがあります」
「違った?」
「違います」
ロビサは匙を置き、きっぱり言った。
「私は記録官です。紙とインクは使いますが、それだけで生きているわけではありません」
「へえ」
「何です」
「今の言い方、ちょっと好きだな」
不意打ちみたいな言葉に、ロビサは椀へ目を落とした。頬へ上がってきそうな熱をごまかすためだったのに、エナシェが横で吹き出すものだから余計に困る。
そのとき、小屋の外で馬車の車輪が止まる音がした。
乾いた、無駄のない音。役所か監察院の馬車だ。
小屋の空気が、ほんの少しだけ変わった。ハディジャが匙を置き、ロビサも反射的に背筋を伸ばす。ほどなくして、戸口の布を払うようにして入ってきた女を見た瞬間、ロビサの喉がひゅっと鳴った。
黒に近い青の外套。襟元まで乱れのない白い詰め襟。銀の留め具には監察院の紋章。
そして、学生時代と変わらず、背筋だけで周囲を静めてしまう立ち姿。
ヴィットリアーナだった。
彼女はまずロビサを見た。次にハディジャを見た。感情を欠いたようでいて、どちらも正確に測る目だった。
「被害記録局見習いロビサ。臨時協力者ハディジャ」
呼び捨てにされた名前が、小屋の中で小さく硬く跳ねる。
「監察院の命により、昨夜の鬼害現場に関連する証拠品管理および持ち出し経路について聴取します」
ロビサは木椀を置いた。熱いはずの煮込みの香りが、急に遠くなる。
「……監察院が、どうして今」
「王城近辺の文書に関わる可能性が出たからよ」
ヴィットリアーナはそれだけ言って、視線をまっすぐロビサへ据えた。
「二人とも来て。任意と言いたいところだけれど、断れば強制になる」
ハディジャが鼻で息を抜く。
「飯のあとじゃ駄目か」
「駄目」
「融通が利かないな」
「昔からよ」
昔から。
その一言が、胸の古い傷を薄い刃で撫でるように痛んだ。
ロビサは立ち上がった。椅子の脚が石床を擦る音が、ひどく大きい。
目の前の女がかつて、自分のいちばん近くにいた人だったことを、体だけが先に思い出してしまっていた。
エナシェが静かに布巾で手を拭き、二人を見比べる。
「帰ってくるまで鍋は取っとくよ」
ロビサは頷けなかった。ただ、まだ熱の残る椀を見た。
温かかったはずの夕方が、そこから先だけ急に冷えていくのを感じながら。
【終】