テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
1,634
#現代ファンタジー
るるくらげ
監察院の馬車は、揺れが少ないくせに落ち着かなかった。厚い座席、磨き込まれた手すり、窓へ垂らされた深青の房飾り。どれも行き届いているのに、その整い方がそのまま息苦しさになっている。向かいに座るヴィットリアーナは、乗り込んだときから一度も背を崩していない。膝の上の書類束は角まで揃い、指先の置き方まで昔と同じだった。
ロビサは視線を窓へ逃がした。石畳を流れていく街の色が、夕霧に溶けてぼやけていく。
昔は、この人の隣が落ち着く場所だった。
学院の講義室で、癖の強い教本へ二人で書き込みを入れたことがある。ロビサが早口で答えを言い、ヴィットリアーナが無言で要点だけを整えた。昼休み、片方が忘れた筆記具を、もう片方が当然の顔で机へ置くこともあった。言葉は多くなくても、同じ歩幅で歩ける人だと思っていた。
その記憶を、今は思い出したくなかった。
ハディジャだけが、場違いなくらい平然としていた。もっとも、平然に見せているだけだとロビサにはわかる。彼は初めて乗る監察院の馬車へ遠慮のない視線を向けながら、窓枠の釘一本まで観察していた。落ち着かないときほど、周囲の逃げ道を先に数える人間の目だった。
「監察院は、いつもこうやって人を連れていくんですか」
ロビサが黙っているのを見て取ったように、ハディジャが軽い口調で言った。
「飯を食い損ねる方法としては、かなり上等ですね」
ヴィットリアーナは視線も上げずに答える。
「食事の継続を優先して証拠の散逸を許した前例がないからよ」
「ひどいな。俺たち、別に逃げてないだろ」
「逃げていない者ほど、証拠を持って歩くの」
「物騒な理屈だ」
会話は軽いのに、間へ通る空気が冷たい。ロビサは口を開かないまま、自分の膝を見た。握り締めた指先が白くなっている。
監察院は王都の北区、役所街のいちばん高い場所に建っていた。白灰色の石造りで、柱は細く長く、夕方の光を受けると刃物のように冷えて見える。玄関をくぐった途端、足音まで整列させられるような空気がロビサの背をなぞった。
案内されたのは、取調室というより記録室に近い部屋だった。壁一面の棚へ、革背表紙の帳簿が寸分違わず並んでいる。中央の長机にはランプが三つ。灯りは十分にあるのに、温かみは少しもない。
ヴィットリアーナは席へ着く前に、二人の前へ薄い灰色の布を広げた。
「押収品を出して」
「まず『ありがとう、鍋の途中だったのに』じゃないのか」
ハディジャが言うと、彼女は初めてほんのわずか眉を動かした。
「感謝は、必要な手順が終わってからにしているの」
「融通が利かない」
「だから監査官をやっているのよ」
ロビサは記録箱から証拠袋を取り出した。封蝋の欠片、銀糸入りの封紙、川沿いの倉庫で回収した紙片、王城の紋章を潰したような荷札。ひとつずつ机へ並べていくと、ヴィットリアーナの指が迷いなく順番を変える。筆跡のあるもの、繊維の違うもの、燃やされた痕のあるもの。学院時代から、この人は散らかった机の上からも規則を見つけ出すのが早かった。
「一次記録は」
「ここです」
ロビサが束を差し出すと、ヴィットリアーナは受け取った。目が走る速度が速い。頁をめくる指先にだけ、わずかな苛立ちが宿っていた。
「被害者家族の証言整理は丁寧ね」
「当然です」
「当然を、ちゃんと当然にできる人は少ないの」
その言い方が、妙に昔に似ていた。
学院時代、徹夜明けの提出物をロビサが雑にまとめようとしたとき、ヴィットリアーナは同じ口調で釘を刺した。『雑にできる才能より、丁寧を崩さないほうが強いの』。褒めているのか叱っているのかわからない言い方で、結局、朝焼けの窓辺で一緒にやり直したのだ。
記憶が、勝手に胸をこじ開ける。
ヴィットリアーナは書類から顔を上げた。
「では聴取に入る。昨夜、現場へ最初に接触した順番から話して」
「何度も言いますけど、俺は封書を追ってただけです」
「だから、その話を最初から求めているの」
問いは的確で、逃げ道がない。どの角を曲がったか、封書を奪った男の背丈はどれくらいか、誰が最初に紙片へ触れたか。ロビサとハディジャの証言を交互に照らし合わせ、食い違いがあればその場で訂正させる。ハディジャは三度ほど「息をする回数まで言うのか」と文句を言い、ヴィットリアーナは二度「必要なら数えなさい」と返した。
途中でロビサの前へ、水差しと硝子杯が静かに置かれた。
給仕かと思って顔を上げると、置いたのはヴィットリアーナ自身だった。何事もなかったように席へ戻っていく背中を見て、ロビサは余計に腹が立った。
そういうところだ。
気遣うなら、どうしてあのときだけ黙ったのだ。
【続】