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探偵社のドアは、相変わらず少しだけ建てつけが悪い。
ノックをしなくても、中に人がいるかどうかは、開ける音でわかる。
「……あ」
木津がドアを押すと、先に気づいたのは燈だった。
ソファに座ったまま、コーヒーを飲んでいる。
「客?」
「違う。たぶん」
その声で、奥から真琴が顔を出した。
ジャージにエプロン。資料整理の途中らしく、指先がインクで汚れている。
「あ、へっぽこ」
「久しぶりの第一声がそれか」
「元気そうじゃん」
真琴はそれだけ言って、また机に戻る。
事件が終わってからも、この場所の空気はほとんど変わっていなかった。
澪は棚の前でファイルを並べ替えていて、玲は床に座り、新聞の切り抜きをまとめている。
誰も「どうしたんですか」とは聞かない。
木津だけが、少し場違いだった。
「……忙しそうだな」
「そうでもないよ」
真琴が答える。
軽い。驚くほど軽い。
「事件、全部片づいたってわけじゃないけどさ。
少なくとも、追いかけられる側じゃなくなった」
その言い方に、木津は何も返せなかった。
警察にいる自分と、ここにいる彼女たちとの距離が、はっきり見える。
「父さんの資料、もう読まないのか?」
「うん」
即答だった。
「必要なとこは、もう澪がまとめたし。
読んでも、父さんは戻らないし」
冷たい言い方じゃない。
ただ、もう結論が出ている声だった。
木津はそれを、どこか怖いと思った。
「……俺は、まだ整理がついてない」
「でしょ」
真琴は振り返らずに言う。
「だから来たんでしょ。
“終わったあと”を、確認しに」
図星だった。
玲が立ち上がり、コーヒーを一杯余分に淹れる。
木津の前に置いて、何も言わずに戻った。
「警察は、あの件を“完了”にした」
木津が言う。
「調査打ち切り。
上は、これ以上触るなってさ」
「うん」
真琴はうなずく。
「知ってる。
でも、それでいいんだよ」
「……いいのか?」
「いい」
はっきりと。
「全部暴いて、全部正しくして、
それで誰かが救われるなら、父さんは黙らなかった」
資料に触れた指を、真琴は軽く拭う。
「父さんは、“残す”ほうを選んだ。
だったら、私は生きる」
木津は、それ以上踏み込めなかった。
彼女の覚悟は、警察の正義よりずっと私的で、強かった。
「へっぽこ」
「まだ言うか」
「たまにはさ」
真琴は少しだけ笑う。
「警察じゃない顔で、来なよ。
事件がなくても、ここは開いてる」
木津は立ち上がり、ドアに手をかける。
「……また来る」
「どうぞ」
外に出る直前、真琴が言った。
「父さんのこと、ありがと」
それだけだった。
ドアが閉まる。
探偵社の中には、また日常が戻る。
「で、次の依頼どうする?」
玲が顔を上げる。
「軽いやつがいい」
澪が言う。
「人が死なないやつ」
「賛成」
燈が短く答える。
真琴は窓の外を一瞬だけ見てから、机に向き直った。
事件は終わった。
でも、彼女たちはまだここにいる。
――余白を生きるために。