テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
399
565
さつまいも

探偵社のドアは、相変わらず少しだけ建てつけが悪い。
ノックをしなくても、中に人がいるかどうかは、開ける音でわかる。
「……あ」
木津がドアを押すと、先に気づいたのは燈だった。
ソファに座ったまま、コーヒーを飲んでいる。
「客?」
「違う。たぶん」
その声で、奥から真琴が顔を出した。
ジャージにエプロン。資料整理の途中らしく、指先がインクで汚れている。
「あ、へっぽこ」
「久しぶりの第一声がそれか」
「元気そうじゃん」
真琴はそれだけ言って、また机に戻る。
事件が終わってからも、この場所の空気はほとんど変わっていなかった。
澪は棚の前でファイルを並べ替えていて、玲は床に座り、新聞の切り抜きをまとめている。
誰も「どうしたんですか」とは聞かない。
木津だけが、少し場違いだった。
「……忙しそうだな」
「そうでもないよ」
真琴が答える。
軽い。驚くほど軽い。
「事件、全部片づいたってわけじゃないけどさ。
少なくとも、追いかけられる側じゃなくなった」
その言い方に、木津は何も返せなかった。
警察にいる自分と、ここにいる彼女たちとの距離が、はっきり見える。
「父さんの資料、もう読まないのか?」
「うん」
即答だった。
「必要なとこは、もう澪がまとめたし。
読んでも、父さんは戻らないし」
冷たい言い方じゃない。
ただ、もう結論が出ている声だった。
木津はそれを、どこか怖いと思った。
「……俺は、まだ整理がついてない」
「でしょ」
真琴は振り返らずに言う。
「だから来たんでしょ。
“終わったあと”を、確認しに」
図星だった。
玲が立ち上がり、コーヒーを一杯余分に淹れる。
木津の前に置いて、何も言わずに戻った。
「警察は、あの件を“完了”にした」
木津が言う。
「調査打ち切り。
上は、これ以上触るなってさ」
「うん」
真琴はうなずく。
「知ってる。
でも、それでいいんだよ」
「……いいのか?」
「いい」
はっきりと。
「全部暴いて、全部正しくして、
それで誰かが救われるなら、父さんは黙らなかった」
資料に触れた指を、真琴は軽く拭う。
「父さんは、“残す”ほうを選んだ。
だったら、私は生きる」
木津は、それ以上踏み込めなかった。
彼女の覚悟は、警察の正義よりずっと私的で、強かった。
「へっぽこ」
「まだ言うか」
「たまにはさ」
真琴は少しだけ笑う。
「警察じゃない顔で、来なよ。
事件がなくても、ここは開いてる」
木津は立ち上がり、ドアに手をかける。
「……また来る」
「どうぞ」
外に出る直前、真琴が言った。
「父さんのこと、ありがと」
それだけだった。
ドアが閉まる。
探偵社の中には、また日常が戻る。
「で、次の依頼どうする?」
玲が顔を上げる。
「軽いやつがいい」
澪が言う。
「人が死なないやつ」
「賛成」
燈が短く答える。
真琴は窓の外を一瞬だけ見てから、机に向き直った。
事件は終わった。
でも、彼女たちはまだここにいる。
――余白を生きるために。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!