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最初に変わったのは、呼び方だった。
名前で呼ばれることが減った。
「凪」ではなく、「犬」とか「蒼の」とか 短い言葉になった。
それでも凪は振り向いた。
自分のことだと分かるからだった。
その日の夜。
大学の近くのカラオケだった。
部屋は広くないのに、十人くらい入っていた。
酒の匂いと甘いドリンクの匂いが混ざっている。
凪はドアの近くの床に座っていた。
最初からそうだったわけじゃない。
席が足りなくなって、誰かが言ったのだ。
「犬、下でいいじゃん」
それで、そうなった。
凪は特に何も言わなかった。
蒼はソファの中央に座っていた。
足を組んで、スマホをいじっている。
曲が終わると、男が言った。
「犬」
凪は顔を上げる。
「灰皿」
テーブルの上の灰皿がいっぱいだった。
凪は立ち上がる。
灰皿を持つ。
ドアを開けて廊下のゴミ箱へ行く。
戻る。
テーブルに置く。
男が言う。
「遅い」
凪は小さく言う。
「ごめん」
それで終わるはずだった。
でも、女の一人が笑った。
「ねえ」
蒼を見る。
「躾けないの?」
蒼はスマホから顔を上げる。
「何を」
女は言う。
「失敗したとき」
部屋の空気が少しだけ静かになる。
誰かが笑う。
蒼は少し考える。
それから、凪を見る。
「犬」
凪は反応する。
「うん」
蒼はテーブルの下を軽く叩く。
「来い」
凪は近づく。
ソファの前。
蒼の足元。
蒼は凪を見下ろす。
数秒。
それから言う。
「遅いのはダメだな」
声は平坦だった。
怒っている感じではない。
ただ、確認するような言い方。
凪は頷く。
「うん」
蒼はグラスを持つ。
中の氷を少し口に含む。
それから、凪に言う。
「口」
部屋が静かになる。
凪は少しだけ止まる。
でも、すぐ口を開く。
蒼は氷を落とす。
カラン、と音がする。
凪は口を閉じる。
氷が舌の上で溶ける。
誰かが笑った。
「マジか」
女が言う。
「ほんと犬」
蒼はグラスをテーブルに戻す。
「次から気をつけろ」
凪は頷く。
「うん」
それで終わった。
誰も怒っていない。
誰も驚いていない。
ただ、面白かっただけだった。
それから、凪の扱いは少し変わった。
命令は減った。
でも、行動は増えた。
誰かが飲み物をこぼす。
凪が拭く。
誰かがタバコを落とす。
凪が拾う。
言われなくても動く。
それを見て、誰かが言う。
「便利だな」
蒼はそれを聞きながら、グラスを揺らしている。
目は凪を見ていない。
でも、全部見えていた。
その夜、店を出たあと。
蒼と凪は少し離れて歩いた。
街灯の下。
蒼が言う。
「お前さ」
凪は顔を上げる。
「うん」
蒼は少し考える。
それから言う。
「どこまでやるつもり?」
凪は少し笑う。
「蒼が言うまで」
蒼は鼻で笑う。
「言わなかったら?」
凪は少し考える。
それから答える。
「じゃあ……ずっと」
蒼は数秒黙る。
それから、何でもない声で言った。
「ほんと……壊れてるな」