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澪が最初に違和感を覚えたのは、答えが出たあとだった。事件は、きちんと終わっている。
依頼人は納得し、調査結果にも矛盾はない。
裁判記録の存在も確認でき、関係者の証言も揃っていた。
「解決だね」
真琴のその一言で、この件は正式に締められた。
探偵社としては、それで十分だ。
それでも澪は、机の上に残されたファイルを見つめていた。
薄い。
最初に見たときと同じ印象が、まだ消えない。
事件の重さに対して、記録が軽すぎる。
だが、それは欠陥ではない。
むしろ「よくできている」。
「納得しやすい形になってる」
玲が、澪の視線に気づいて言った。
「説明としては、完璧に近い」
「うん」
澪は頷いた。
「だから、違和感が残る」
燈は椅子に寄りかかり、あくびを噛み殺す。
「違和感って言われてもなあ。依頼は終わったし」
「そう」
澪は静かに言う。
「終わりすぎてる」
玲が、ファイルを一枚めくった。
「判断に迷う余地がない、ってこと?」
「うん。
迷わせないために書かれたみたい」
玲は、その言い方を反芻するように黙った。
事務室では、伊藤がいつものように資料をまとめている。
事件が終わったあとの作業だ。
関係書類を分類し、不要な重複を除き、棚に戻す。
一つひとつの動作に迷いはない。
「伊藤さん」
澪が声をかけた。
「ん?」
振り返りもしない。
「この事件の資料、前にも見た形に似てる」
「そうか?」
「似てる、というより」
澪は言葉を探した。
「同じ基準で整えられてる」
伊藤は、手を止めた。
「基準があれば、そうなるだろ」
「その基準って、どこで作ったの?」
伊藤は、少し考えるような間を置いた。
「昔からだな」
「探偵社に来る前?」
「ああ」
伊藤は、あっさり認めた。
「事件ってのは、そのまま並べると見づらい。関係者も、読む側も混乱する。だから、要点だけ残す」
「残す、ってことは」
澪は続ける。
「捨てるものも決めてる?」
伊藤は、初めて澪を見た。
「必要ないものはな」
玲が、ゆっくりと口を挟む。
「必要ない、って誰が決めるの?」
伊藤は、少し笑った。
「決めるってほどじゃない。
判断するだけだ」
その言い方は、軽かった。
だが、曖昧ではない。
「判断を間違えたら?」
澪が聞く。
「間違えないようにする」
「どうやって?」
伊藤は、棚に資料を戻しながら答えた。
「何が残れば、皆が納得するかを考える。 それだけだ」
燈が鼻で笑う。
「便利だな、それ」
「便利だろ」
伊藤は否定しない。
「揉めないし、引きずらない」
真琴は、少し考えてから言った。
「伊藤さんのやり方で、助かった事件は多い。少なくとも、ここでは」
伊藤は肩をすくめた。
「結果がすべてだ」
その言葉で、会話は途切れた。
誰も反論しなかった。
反論する理由が、見つからない。
澪は、胸の奥に残ったざらつきを、言葉にできずにいた。
伊藤の言っていることは、正しい。
事実を歪めているわけではない。
嘘もついていない。
ただ――。
「事実は、そのままだと強すぎることがある」
伊藤の言葉が、頭の中で反芻される。
強すぎる事実。
だから、削る。
だから、整える。
澪は、ふと気づいた。
伊藤は、何も隠していない。
自分のやっていることを、最初から言っている。
それをどう受け取るかは、聞いた側の問題だ。
机の上のファイルを閉じる。
事件は終わった。
依頼は果たされた。
それでも、澪の中では、一つの像が形を取り始めていた。
伊藤は、事件を解決する人間ではない。
真実を暴く人間でもない。
――整える人だ。
事実が、社会に残る形を。
それが正しいかどうかは、まだ分からない。
だが少なくとも、偶然ではない。
澪は、伊藤から静かに視線を外した。
踏み込めば、何かが壊れる。
踏み込まなければ、このまま続く。
その境界線が、今、目の前にあった。
探偵社の時計が、静かに時を刻む。
余白は、まだ埋まらない。
だが、誰がそれを作っているのかだけは、はっきりしてきていた。