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父の手帳を、真琴は一度、鞄にしまった。
全部を読み切ったあとで、
もう一度ページを開く気にはなれなかった。
言葉が足りないわけじゃない。
むしろ、十分すぎるほど書かれている。
「……これ」
玲が、机に広げられた資料を指で叩く。
「どこにも“嘘”はないね」
不正事件の記録。
連続失踪事件の捜査報告。
黒瀬の判決文。
父が個人で集めたコピー。
全部、正しい。
事実として、成立している。
「なのに」
燈が続ける。
「全部、間違ってる感じがする」
真琴は、ゆっくり息を吐いた。
「間違ってはいない」
そう言ってから、少し考える。
言い直す。
「……足りないだけ」
何が足りないのか。
それは、証拠でも、論理でもない。
「“使われ方”だ」
澪が、小さく言った。
真琴は頷く。
「この事件、真実は最初からあった」
不正事件の内部構造。
証言者たちの立場。
失踪のタイミング。
黒瀬の沈黙。
全部、見えていた。
見ようとすれば。
「でも、誰も使わなかった」
玲が静かに整理する。
「正確には」
真琴は答える。
「使えなかった」
父は、使おうとして死んだ。
久我は、使わないことで生き残った。
黒瀬は、使わないことを選んで檻に入った。
「……選択肢は、あったんだな」
燈が言う。
「うん」
真琴は肯定する。
「だからこれは、隠蔽じゃない」
資料は残っている。
名前も、数字も、流れも。
全部、揃っている。
「真実が隠された事件じゃない」
澪が言う。
「真実が――」
「使われなかった事件」
真琴は、はっきり言った。
その瞬間、
部屋の空気が、少し変わる。
謎が解けた、という感じじゃない。
むしろ逆だ。
「これ、解決しないね」
玲が言う。
「しない」
真琴は即答する。
「立件もできない。
公式に結論も出ない」
黒幕の名前はある。
だが、証拠は“合法的に足りない”。
裁けば、
父と同じ場所に立つことになる。
「じゃあ、何をする?」
燈が問う。
真琴は、父の手帳が入った鞄に手を置いた。
「使い方を、変える」
告発はしない。
名前も出さない。
裁かせるルートも選ばない。
その代わり――
「理解した上で、別の選択をする」
黒瀬が、できなかったこと。
父が、途中で倒れた場所。
久我が、踏み込まなかった線。
そこを、越える。
「……ずるくない?」
燈が、少し苛立ったように言う。
「逃げてるとも言える」
真琴は、否定しなかった。
「言えるね」
でも、と続ける。
「黒瀬は、逃げなかった」
逃げなかった結果、
檻に入った。
「父も、逃げなかった」
逃げなかった結果、
死んだ。
「だったら」
真琴は、視線を上げる。
「逃げる選択を、
理解した上で取る人間がいてもいい」
それは、弱さじゃない。
継承だ。
「真実を、使わないままにしない」
「でも、使いもしない」
玲が、ゆっくり言葉にする。
「……矛盾してる」
「してない」
真琴は答える。
「次の人間に、渡す」
名前を伏せたまま。
構造だけを残して。
父が残したのと、同じように。
でも、今度は――
一人で抱えない。
机の上に、資料が積み上がる。
どれも、結論にはならない紙だ。
それでも。
「これでいい」
真琴は、はっきり言った。
「黒瀬の沈黙は、無意味じゃなかった」
誰も裁かれなかった。
でも、
誰も“何も知らない”ままでは終わらない。
この事件は、終わらない。
だが、止まってもいない。
真琴は立ち上がる。
「次は――」
父とも、黒瀬とも、久我とも、違う場所。
「生きてる側が、
どう背負うかを見る」
それができなければ、
父の死も、
黒瀬の檻も、
全部、ただの損失になる。
机の上には、
“正しく使われなかった真実”が残っている。
それを前に、
真琴たちは、初めて同じ方向を向いた。