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遥は、自分が“普通にしている”つもりの時間ほど、息が浅くなる。
日下部の前では特にそうだ。
「……何見てんの」
視線に気づいて、遥が言う。
不機嫌そうに聞こえるけど、怒ってはいない。
「いや。ぼーっとしてただけだ」
嘘だ、と遥は思う。
日下部がぼーっとする時は、だいたい“考えている時”だ。
「最近さ」
遥が先に切り出す。
「俺、前よりちゃんとしてるでしょ」
言い方は軽い。
でも、どこか確認するみたいな調子。
日下部は少し迷ってから、頷く。
「……ああ。無理してる感じは、前よりない」
その言葉を聞いた瞬間、遥の胸がきゅっと縮む。
――ほら。
――“前より”。
「そっか」
遥はそれ以上、何も言わない。
言えない。
“前より”ちゃんとしているなら、
“前より”苦しいって言うのは、おかしい。
日下部が続ける。
「今は、落ち着いてるように見える」
見える。
その言葉が、遥には重い。
「見えるだけだよ」
ぽつっと言う。
冗談みたいに。
「……どういう意味だ」
日下部の声が少し低くなる。
その変化に、遥は気づいて、でも無視する。
「そのまんま」
遥は肩をすくめる。
「助けられた後ってさ、言いにくくなるんだよ」
「何が」
「しんどいとか。まだ無理とか」
日下部が黙る。
その沈黙が、答えみたいに感じてしまう。
「だってさ」
遥は笑う。
自分でも、変な笑いだと思う。
「一回止めてもらってるのに、また同じこと言うの、どうなんだってなるだろ」
「そんなこと、思わない」
即答だった。
でも遥は首を振る。
「思わなくてもさ、そうなる」
「誰が、そう言った?」
「誰も言ってない」
遥は即座に返す。
「言われてない。でも、分かるだろ」
分かる、という言葉の中に、
幼い頃から積み重なった全部が詰まっている。
苦しいって言えば、空気が悪くなる。
助けを求めれば、後で必ず代償が来る。
守られたら、次は“いい子”でいろ。
「助けられたって事実がさ」
遥は床を見たまま続ける。
「もう十分って扱いになるんだよ」
日下部が何か言おうとして、止まる。
「生きてるんだから、いいだろ、とか。
止めてもらったんだから、もう終わりだろ、とか」
「……俺は、そんなこと言ってない」
「分かってる」
遥は即答する。
そこは本心だ。
「言ってない。でも、条件はもう揃ってる」
日下部は眉をひそめる。
「条件?」
「ああ」
遥はようやく顔を上げる。
「生かされた。守られた。止められた」
指を一本ずつ折る。
「これでまだ苦しいって言ったら、欲張りだろ」
日下部ははっきりと首を振る。
「違う」
でも遥は続ける。
「終わりたいって言ったらさ、今度は――」
一瞬、言葉が途切れる。
それでも遥は言う。
「“また同じことをさせるのか”ってなる」
それは誰の声でもない。
日下部の声でもない。
遥の中で、ずっと前から出来上がっている理屈。
日下部は黙ったまま、遥を見る。
否定しきれない沈黙。
分からない沈黙。
その沈黙を見て、遥は確信する。
――ほら。
――やっぱり、これ以上は言えない。
「別に、責めてないから」
遥は先に逃げ道を作る。
「日下部が悪いとかじゃない」
「じゃあ、何だ」
「俺の問題」
きっぱり言う。
「助けられたのに、救われてないって感じるのは」
それ以上、言葉を続けなかった。
続けたら、何かが壊れる気がしたから。
日下部は何も言えない。
遥は立ち上がる。
「今日はもういい」
「……どこ行く」
「帰るだけ」
振り返らずに言う。
「心配しなくていい。ちゃんと生きてる」
その言い方が、
“これ以上聞くな”という線引きだと、日下部は理解する。
遥は歩き出す。
助けられた事実を背負ったまま。
救われていない感覚を、言葉にできないまま。