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日下部は、言葉を選ぶのが苦手だ。
正確には、選んでいるつもりで、いつも外す。
遥が帰ったあと、部屋の空気が妙に静かだった。
物音がないわけじゃない。外の車も、廊下の足音もある。
でも、さっきまでいた人間が抜けた空間は、音の種類が変わる。
――何を間違えた。
椅子に座ったまま、日下部は考える。
「欲張りだろ」
遥が言った言葉が、頭に残っている。
そんなこと、思ったことはない。
一度も。
助けたから楽になれ、なんて思っていない。
感謝しろ、なんて論外だ。
弱音を吐くな、と言った覚えもない。
それなのに、遥は確信していた。
言われていないのに、言われる前提で話していた。
――どうすれば、そう聞こえる。
日下部は机に肘をつく。
指先でこめかみを押す。
自分は何をしている。
ただ、様子を見ているだけだ。
危なそうなら声をかける。
大丈夫かと聞く。
帰ったか確認する。
それだけだ。
それだけのはずなのに。
「……見てる」
遥は言った。
何見てんの、って。
見ている。
確かに見ている。
見ていないと、怖いからだ。
あの日、目を離した数分で、取り返しがつかなくなりかけた。
だから今も、無意識に視線が向く。
会話の合間、呼吸の間、沈黙の長さ。
異常がないか、確認する癖がついた。
守るためだ。
責任として。
――責任。
日下部は、その言葉に引っかかる。
責任を感じるのは当然だと思っていた。
助けた以上、死なせない。
次があったら、また止める。
それは義務に近い。
迷う余地のないことだ。
でも。
その“当然”が、遥にはどう見える。
見張られている。
監視されている。
またやる気だと思われている。
そう受け取られても、おかしくないのかもしれない。
日下部は椅子から立ち上がり、窓の外を見る。
もう暗い。
スマホを手に取る。
連絡はない。
帰った、という報告もない。
――聞くべきか。
「帰ったか」
それだけ送るのは簡単だ。
でも、それを送った瞬間、遥の顔が浮かぶ。
「心配しなくていい。ちゃんと生きてる」
あの言い方。
心配しなくていい、と言いながら、
心配される前提で線を引いてくる。
日下部は、メッセージ入力欄を開いて、閉じる。
何が正解だ。
聞かなければ、放置になるのか。
聞けば、監視になるのか。
距離を取れば、見捨てたことになるのか。
近づけば、負担になるのか。
分からない。
ただ一つ分かるのは、
遥が苦しんでいる、ということだけだ。
助けたのに、まだ苦しい。
止めたのに、終わっていない。
それ自体は、理解できる。
苦しみが一度で消えるなんて、思っていない。
でも。
「助けられた以上、もう言えない」
そこが分からない。
誰もそんな条件は出していない。
少なくとも、自分は。
なのに遥は、最初からその条件がある前提で動く。
言う前に諦める。
聞く前に引く。
日下部は、机の端に手を置く。
力が少し入る。
――どうすればいい。
強く関われば、重くなる。
離れれば、危険になる。
正解がない。
いや、あるのかもしれないが、
自分はまだ辿り着いていない。
ただ。
「離れたらいけない」
それだけは、はっきりしている。
理由は分からない。
噛み合わない理由も分からない。
それでも、目を離す選択だけは取れない。
それが余計に、距離を生んでいるとしても。
日下部はスマホをもう一度見る。
画面は暗いまま。
何も送らないまま、机に置いた。
守ろうとしている。
でも、その守り方が正しいかは分からない。
分からないまま、
次に会ったときも、たぶん同じことを繰り返す。
「今、大丈夫か」
そう聞いてしまう。
そして遥は、たぶんまた言う。
「大丈夫」
本当かどうか分からないまま。