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王宮での生活は、静寂とは程遠かった。
廊下を歩くだけで、視界の端が絶えず揺れる。
侍女たちの淡い緑。近衛騎士の鋭い青。高官たちの濁った橙。
色は音もなく溢れ、空気に滲み、重なり合う。
エリュネ・ノクシアの周囲だけが、空白のように澄んでいた。
無色は珍しい。
それだけで視線を集める。
「本当に、何も出ないのね」
控えの間で衣装合わせをしていたとき、年若い侍女が思わず呟いた。
隣の者が慌てて袖を引く。
侍女の頬には薄桃色が灯っている。羞恥と好奇心。
「失礼いたしました」
「構いません」
エリュネは鏡の中の自分を見る。
白銀の刺繍を施した深青のドレス。
胸元は、空白。
歴代王妃の肖像画を思い出す。
そこにあった金の輝きは、ここにはない。
午後、謁見の間での披露が行われた。
王太子の隣に立つ。
玉座の間は光で満ちている。
高い天井から吊るされた結晶灯が、感情の色を反射して揺らす。
列席する貴族たちの色が一斉に波打った。
羨望の紫。
計算の橙。
不安の灰。
そして、王太子の金。
強く、安定した光。
彼は公の場では一切視線を寄越さない。
距離を保ち、形式通りに振る舞う。
それが合意だった。
「エリュネ・ノクシア嬢は、我が婚約者である」
宣言の声が広間に響く。
色が一段と濃くなる。
だが彼女の周囲は、依然として澄んだままだ。
空白は、時に異物になる。
式典が終わり、控室へ戻る途中。
「殿下はお優しい」
年配の女官が、意味ありげに言った。
その周囲に滲むのは鈍い青。憐憫。
「感情の欠けた方をお側に置くなど」
「欠けているかどうかは、判定できません」
エリュネは淡々と返す。
女官はわずかに眉をひそめた。
青が濃くなる。
「星を生まない王妃など、前例がございません」
「前例は、最初の一人が作るものです」
自分でも驚くほど、声は静かだった。
感情が動いたわけではない。
ただ、事実を述べただけ。
その夜。
王宮の最上階、観測室。
巨大な天文盤の前で、王太子は一人立っていた。
補佐官が報告する。
「本日、北東の空域に微弱な光が観測されました」
「色は」
「……判別不能です」
王太子の金色が、わずかに揺れる。
「記録は」
「残っておりません。再観測も不可能でした」
幻の可能性もある、と補佐官は付け加える。
王太子は夜空を見上げる。
無数の星。
その中に、見えない何かが混じっているのかもしれない。
一方。
自室に戻ったエリュネは、窓を開けていた。
冷たい夜気が流れ込む。
遠くの塔の灯り。
静かな街。
胸元に手を当てる。
何も感じない。
鼓動は規則正しい。
昂りも、熱もない。
それなのに。
昼間、玉座の間で王太子の金色が揺れた瞬間。
わずかに視界が静まった気がした。
他者の色が遠のくような、錯覚。
名称がつかない。
感情かどうかも分からない。
「……合理的」
独り言のように呟く。
婚約は理にかなっている。
愛は不要。
それで均衡は保たれるはずだった。
だが夜空のどこかで、
誰にも観測されない微光が、確かに存在している。
色の洪水の中で、
無色は孤立する。
けれど孤立は、消滅ではない。
王宮の天文盤が、わずかに軋んだ。
記録されない変化が、ゆっくりと始まっている。