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「なあ……今日、空いてるよな」
放課後、教室の扉が閉まる音を背に、遥は廊下の隅へと連れていかれた。 逃げようとすればできたはずだった。誰も彼もが見て見ぬふりをしている中で、自分ひとりだけが歩みを止めて振り返ったなら、少なくとも「異常」は証明できたかもしれない。 けれど、それをしない。しなかったのは、臆病だからでも、諦めたからでもない。ただ、何度目かの“今日”だったから。
トイレの個室。使用されていないことを知っている一部の生徒だけが、そこを「場所」として使っていた。
「返事は?」
背中が冷えたタイルに押しつけられた。 遥は視線を逸らさない。黙ったまま睨み返すと、掴まれていた制服の襟が少し緩む。だが、それは解放ではなかった。
「今日は“泣いてくれる”ってさ。な? 前より上手くできるよな?」
乾いた笑い声とともに、別の手が頬に触れる。叩かれるわけでもなく、優しくなぞるようなその仕草に、遥はむしろ背筋を凍らせた。
「……さわんなよ」
低く、唸るように言った。 その声に驚いたのか、一瞬だけ、空気が固まる。
「へぇ、喋った。こいつ、今日は反抗期?」 「じゃあ罰だな」
腕を掴まれ、ねじ上げられる。思わず小さく呻いたその音を、彼らは嬉しそうに拾い上げた。
「──いい声」
たったひと言が、何よりも深く遥を抉る。 声。反応。壊れ方。 彼らが求めているのは「演技」ではなく「本音が漏れる瞬間」だった。
そのことを、遥は痛いほど知っていた。
「じゃ、今日はこの“部位”な。ほら、さっき反応してたし」
誰かがスカートの裾をめくるような手つきで、遥の制服のシャツを乱暴に引き上げる。 冷たい空気に晒された肌に、爪の先が這った。
「やめろって言ってんだろ……!」
怒鳴ったわけではない。だが、言葉は明確だった。 それは彼自身の意志による「拒絶」であり、「それでも通じない」ことがわかっている絶望でもあった。
指先が腰に食い込む。誰かが携帯を構える。
「顔、撮れる? この角度だと光入らねぇ」 「声だけなら録れるだろ」
スマートフォンのマイクが、遥の口元に近づく。
「ほら。今日の“ひとこと”どうぞ」
そう言われても、遥は口を閉ざさない。いや、閉ざしているのではなく、考えていた。
何を言えば終わるのか。 何を言わなければ、さらに地獄が続くのか。
「……殺すぞ」
掠れた声で、それだけ言った。 笑いが、弾けたように響いた。
「おいおい、物騒〜」 「でもいいね、今の。ちょっと録音リスト入り決定」
誰も、真剣にその言葉を受け取ろうとはしなかった。 その事実が、遥を最も深く傷つけた。
「次はどうする? もう一段階いっとく?」 「鳴かせてから、決めようぜ」
ひとりがドアの鍵を確認する。もうひとりが制服のボタンをひとつ、外す。
遥は、壁に背を押しつけられながら、息を吸った。 そして──吐く。
「……やれるもんなら、やってみろよ」
感情を込めた声ではない。ただ、絞り出すように出した「彼の本音」だった。
それを聞いた一人の手が、ぴたりと止まった。
「こいつ……マジで折れてねぇのか?」
その声に、誰かが応じた。
「いや、違う。これは、折れる直前のやつだ。ほら、目が……泣きそうだろ」
ふざけたように言いながら、誰かの手が頬を叩いた。 乾いた音。
遥の視界が、一瞬だけ揺れた。
「じゃあ──壊すしかねぇよな」
その声と同時に、遥の腹に鈍い衝撃。 拳だった。加減などない、ただの暴力。 呼吸が詰まり、身体が崩れる。だが倒れきる前に、髪を掴まれて支えられた。
「逃げるなよ。まだ途中だろ」
もう一発。脇腹。内側が捩れるような痛みに、唇を噛んだ。 血の味が広がる。
個室の中で、ただ、音が響いた。 水の滴る音ではない。息の詰まる音と、笑い声。
「こいつ、泣かねぇのがウリなんだって? じゃあ泣かせるまで、やめらんねぇよな」
遥は、自分の拳を固く握りしめた。 それでも、目は伏せなかった。歯を食いしばり、声を押し殺す。
「……おまえらの顔、全部覚えてるからな」
それは脅しでもなく、助けを求める声でもない。 ただの記録。 いつか壊れてしまう前に、自分が“まだ”ここにいるという証。
──その瞬間、また一撃。 拳が、今度は肩口にめり込む。 視界が滲む。
「いいね、その目」
誰かが囁いた。 まるでそれが、「作品」の完成に近づいた合図であるかのように。