テラーノベル
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動画が広がったあと、世界が急に変わるわけではなかった。
講義はいつも通り始まり、チャイムは同じ時間に鳴る。教授は黒板に文字を書き、学生はノートを取る。凪もその中に座っている。ただ、それだけだった。
ただ一つ違うのは、視線だった。
廊下を歩けば、誰かが凪の顔を見てから、スマホの画面を見る。小さく笑う声が背中に落ちる。あからさまに何か言われることは多くないが、何も言われないことの方が逆に分かりやすかった。
見られている。
そのことだけが、はっきり伝わってくる。
最初のうちは、凪は気づかないふりをしていた。気づかなければ、何も変わらないような気がしたからだった。だが、同じことが何度も続くと、それも難しくなる。
昼休み、教室の後ろの席で弁当を食べているときだった。
二つ前の席の男が、振り向きざまにスマホを見せた。画面には見覚えのある映像が止まっている。
凪が床に座っている場面だった。
「これ、お前?」
訊く声は軽かった。責めるような調子ではない。ただ、確かめるだけの声だった。
凪は少し黙る。
男は答えを待たない。すぐに笑って、前を向いた。
「やば」
それだけ言った。
周りの席から、くすくす笑う声が聞こえる。
凪は弁当を閉じた。まだ半分残っていたが、食べる気がしなかった。
その日、凪はまっすぐ家に帰った。
部屋に入ると、しばらく何もせずに立っていた。靴も脱がないまま、玄関の前でぼんやりしている。頭の中に、昼休みの光景が何度も浮かんでいた。
床に座っている自分。
笑っている声。
スマホのカメラ。
凪はゆっくり靴を脱ぎ、部屋の中に入る。台所の前で立ち止まり、しばらく流しを見つめた。
水を出す。
手を洗う。
それだけの動作に、少し時間がかかった。
チャイムが鳴ったのは、そのあとだった。
凪は一瞬だけ動きを止める。来るとしたら誰か、考えるまでもない。
ドアを開けると、蒼が立っていた。
「入る」
いつも通りの言い方で、蒼は中に入る。靴を脱いで、勝手にソファに座る。凪の顔を一度見たが、特に何も言わなかった。
しばらくしてから、蒼が口を開く。
「今日、また見た」
凪は台所に立ったまま、振り向かない。
「何人かで見てた」
蒼はスマホをいじりながら続ける。
「結構ウケてたよ」
軽い調子だった。
凪は、しばらく黙っていた。包丁を握っている手に、少しだけ力が入る。
「……ごめん」
自分でも、なぜそう言ったのか分からなかった。
蒼は少しだけ顔を上げる。
「なんで」
凪は答えない。
沈黙が続く。
蒼は肩をすくめた。
「別に俺、困ってないけど」
それから、少しだけ笑う。
「お前がやったんだし」
凪の手が止まる。
その言葉は責めているわけではない。ただ事実を言っているだけの声だった。
それでも、胸の奥に何かが沈む。
凪はゆっくり息を吐き、また包丁を動かし始める。野菜を切る音が小さく響く。
蒼はしばらくその音を聞いていたが、ふと立ち上がった。
台所まで歩いてくる。
凪の横に立ち、まな板の上を見る。
「まだ気にしてんの?」
凪は答えない。
蒼は少しだけ考える顔をした。
それから、凪の顎に指をかける。
軽く上を向かせる。
視線が合う。
凪の目は、少しだけ赤くなっていた。
蒼はそれを見て、一瞬だけ黙る。
それから、静かに言った。
「でもさ」
指を離す。
「もうみんな知ってるよ」
凪は何も言えない。
蒼は元の場所に戻り、ソファに座る。
「今さらだろ」
その言葉を聞いたとき、凪は自分の中で何かがゆっくり崩れるのを感じていた。
怒りでもなく、悲しみでもない。
ただ、何かを守ろうとしていた力が、少しずつ抜けていくような感覚だった。
部屋の中では、包丁の音だけが静かに続いていた。