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大学の構内を歩いていると、視線に気づくことがある。
最初は気のせいかと思った。だが、何度も同じことが続くと、偶然ではないと分かる。遠くからこちらを見て、何か言っている人。スマホを見てから凪の顔を見る人。笑う人。目を逸らす人。
凪は、あまり気にしないようにしていた。
見られている理由は分かっている。あの動画だ。あの短い映像がどこまで広がっているのかは知らないが、少なくとも、この大学の中ではそれなりに知られているらしい。
それでも、生活は続く。
講義に出て、ノートを取り、昼になると学食へ行く。いつも同じ席に座るわけではないが、何度か顔を合わせている連中と同じテーブルになることが多かった。
その日もそうだった。
昼の学食は混んでいて、空いている席を探していると、後ろから声がかかる。
「凪」
振り向くと、蒼が立っていた。
「ここ」
蒼の向こう側のテーブルに、三人ほど見慣れない顔がいる。蒼の知り合いらしい。凪は少しだけ迷ったが、そのままついていった。
テーブルの端に座る。
蒼の向かい側だった。
会話は凪を中心に回るわけではない。講義の愚痴や、バイトの話、昨日の飲み会の話。凪はほとんど聞いているだけだった。
ただ、視線だけは時々こちらに向く。
そのうちの一人が、ふとスマホを取り出した。
「そういえばさ」
軽い声だった。
「これ知ってる?」
画面をテーブルの中央に向ける。
凪は見なくても分かった。再生されている映像の音が、ほんの少しだけ漏れていたからだ。
『蒼が嫌がるから』
自分の声だった。
数秒の沈黙。
それから誰かが笑う。
「あー」
「これか」
「マジだったんだ」
凪は視線を落としたまま、箸を動かしている。食べ物の味はほとんど分からない。
「これお前?」
一人が訊く。
凪は少しだけ考えてから、頷いた。
「……うん」
その答えを聞いた瞬間、テーブルの空気が少しだけ変わる。笑いをこらえるような、でも完全に止める気もない、そんな中途半端な空気だった。
「やば」
「ほんとにいるんだ」
「すげえな」
言葉は軽い。悪意というほどではない。ただ、面白いものを見つけたときの声だった。
蒼は何も言わない。
腕を組んだまま、テーブルの上を見ている。
その沈黙が、逆に周りを安心させたのかもしれない。
一人が笑いながら言う。
「なあ」
凪の方を見る。
「お前さ」
少し間を置く。
「犬っぽいよな」
テーブルの上で、誰かが吹き出した。
「わかる」
「動画のまんまじゃん」
笑いが広がる。
凪は顔を上げない。
別に初めて言われたわけではない。高校の頃から、似たようなことは何度もあった。
誰かが紙ナプキンを丸める。
それを指でつまんで、凪の前に置いた。
「ほら」
軽く言う。
「お手」
冗談のつもりなのは分かる。声の調子がそうだった。
凪は一瞬だけ手を止める。
それから、ゆっくりと手を出した。
テーブルの上に、掌を置く。
笑いが起きる。
「やるんだ」
「マジか」
「素直すぎ」
凪は小さく笑う。
笑っていれば、空気は悪くならない。昔からそうだった。
ナプキンを置いた男が、さらに面白がる。
「伏せ」
今度は床を指した。
凪は少しだけ迷う。
学食の床は冷たい。人も多い。視線も多い。ここでそれをやれば、確実に目立つ。
でも。
凪は椅子からゆっくり降りた。
片手を床につく。
それだけで、周りのテーブルからも小さなざわめきが起きる。
「やば」
「ほんとにやる」
笑い声。
誰かがまたスマホを向ける。
そのとき、ふと誰かが言った。
「ていうかさ」
少し笑いながら、蒼の方を見る。
「蒼の犬じゃん」
冗談の調子だった。
ただの言葉遊びみたいに、軽く投げられた一言。
一瞬だけ、テーブルの空気が止まる。
凪は床に手をついたまま、顔を上げた。
蒼を見る。
蒼は笑っていない。
ただ、凪を見ている。
数秒。
凪は小さく息を吐いて、それから静かに言った。
「……うん」
その声は小さかったが、テーブルの全員に聞こえた。
誰もすぐには笑わなかった。
ただ蒼だけが、少しだけ眉を寄せていた。