テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
大学の構内を歩いていると、視線に気づくことがある。
最初は気のせいかと思った。だが、何度も同じことが続くと、偶然ではないと分かる。遠くからこちらを見て、何か言っている人。スマホを見てから凪の顔を見る人。笑う人。目を逸らす人。
凪は、あまり気にしないようにしていた。
見られている理由は分かっている。あの動画だ。あの短い映像がどこまで広がっているのかは知らないが、少なくとも、この大学の中ではそれなりに知られているらしい。
それでも、生活は続く。
講義に出て、ノートを取り、昼になると学食へ行く。いつも同じ席に座るわけではないが、何度か顔を合わせている連中と同じテーブルになることが多かった。
その日もそうだった。
昼の学食は混んでいて、空いている席を探していると、後ろから声がかかる。
「凪」
振り向くと、蒼が立っていた。
「ここ」
蒼の向こう側のテーブルに、三人ほど見慣れない顔がいる。蒼の知り合いらしい。凪は少しだけ迷ったが、そのままついていった。
テーブルの端に座る。
蒼の向かい側だった。
会話は凪を中心に回るわけではない。講義の愚痴や、バイトの話、昨日の飲み会の話。凪はほとんど聞いているだけだった。
ただ、視線だけは時々こちらに向く。
そのうちの一人が、ふとスマホを取り出した。
「そういえばさ」
軽い声だった。
「これ知ってる?」
画面をテーブルの中央に向ける。
凪は見なくても分かった。再生されている映像の音が、ほんの少しだけ漏れていたからだ。
『蒼が嫌がるから』
自分の声だった。
数秒の沈黙。
それから誰かが笑う。
「あー」
「これか」
「マジだったんだ」
凪は視線を落としたまま、箸を動かしている。食べ物の味はほとんど分からない。
「これお前?」
一人が訊く。
凪は少しだけ考えてから、頷いた。
「……うん」
その答えを聞いた瞬間、テーブルの空気が少しだけ変わる。笑いをこらえるような、でも完全に止める気もない、そんな中途半端な空気だった。
「やば」
「ほんとにいるんだ」
「すげえな」
言葉は軽い。悪意というほどではない。ただ、面白いものを見つけたときの声だった。
蒼は何も言わない。
腕を組んだまま、テーブルの上を見ている。
その沈黙が、逆に周りを安心させたのかもしれない。
一人が笑いながら言う。
「なあ」
凪の方を見る。
「お前さ」
少し間を置く。
「犬っぽいよな」
テーブルの上で、誰かが吹き出した。
「わかる」
「動画のまんまじゃん」
笑いが広がる。
凪は顔を上げない。
別に初めて言われたわけではない。高校の頃から、似たようなことは何度もあった。
誰かが紙ナプキンを丸める。
それを指でつまんで、凪の前に置いた。
「ほら」
軽く言う。
「お手」
冗談のつもりなのは分かる。声の調子がそうだった。
きょRa
凪は一瞬だけ手を止める。
それから、ゆっくりと手を出した。
テーブルの上に、掌を置く。
笑いが起きる。
「やるんだ」
「マジか」
「素直すぎ」
凪は小さく笑う。
笑っていれば、空気は悪くならない。昔からそうだった。
ナプキンを置いた男が、さらに面白がる。
「伏せ」
今度は床を指した。
凪は少しだけ迷う。
学食の床は冷たい。人も多い。視線も多い。ここでそれをやれば、確実に目立つ。
でも。
凪は椅子からゆっくり降りた。
片手を床につく。
それだけで、周りのテーブルからも小さなざわめきが起きる。
「やば」
「ほんとにやる」
笑い声。
誰かがまたスマホを向ける。
そのとき、ふと誰かが言った。
「ていうかさ」
少し笑いながら、蒼の方を見る。
「蒼の犬じゃん」
冗談の調子だった。
ただの言葉遊びみたいに、軽く投げられた一言。
一瞬だけ、テーブルの空気が止まる。
凪は床に手をついたまま、顔を上げた。
蒼を見る。
蒼は笑っていない。
ただ、凪を見ている。
数秒。
凪は小さく息を吐いて、それから静かに言った。
「……うん」
その声は小さかったが、テーブルの全員に聞こえた。
誰もすぐには笑わなかった。
ただ蒼だけが、少しだけ眉を寄せていた。