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蒼の部屋に入った瞬間、凪はいつもと違う空気を感じ取った。
玄関に脱ぎ散らかされた靴の数が、普段より多い。
中から聞こえてくる声も、知らないものが混ざっている。
ドアを開けると、煙草の匂いと酒の匂いが混ざった重い空気が流れてきた。
「お、来た」
誰かが笑いながら言った。
その言い方は、友人を迎える声というより、面白いものが到着したときの声に近かった。
凪は少しだけ視線を下げる。
部屋の奥を見ると、蒼がベッドにもたれて座っていた。
足を投げ出し、グラスを片手に持っている。
蒼の視線がこちらに向く。
その瞬間、凪の胸の奥がわずかに緊張する。
怒っているわけでも、機嫌が悪いわけでもない。
それでも、蒼に見られると、身体のどこかが自然と固くなる。
理由は自分でもよく分かっていた。
何をされるか分からないからだ。
それでも、逃げようとは思わない。
凪は玄関の横、いつもの場所に静かに座った。
部屋の中では、何人かがスマホを見ながら笑っていた。
「これ見て」
「やば」
くだらない動画の音が流れる。
凪はそれをぼんやり聞きながら、
ときどき誰かに呼ばれては立ち上がる。
「氷」
「ゴミ捨てといて」
「コンビニ袋ある?」
いつもと同じだ。
それはもう、凪の役割になっている。
最初の頃は、こういうことをさせられるたびに胸の奥がざわついていた。
なんで自分がこんなことをしているんだろう。
そう思うこともあった。
でも今は、少し違う。
やらされているというより、
蒼の視線の中にいるために動いている感覚に近かった。
それがいいことなのかどうか、
凪自身もまだ整理できていない。
酒が回り始めた頃だった。
初めて見る男が、凪の方を顎で示して言った。
「これが噂の?」
隣の男が笑う。
「そうそう、蒼の犬」
その言葉に、何人かがくすくす笑う。
凪は聞こえないふりをした。
慣れていないわけじゃない。
でも、胸の奥が少しだけ冷える。
それを見ていた蒼が、ゆっくり口を開いた。
「犬」
凪は顔を上げる。
「うん」
蒼は顎で床を示した。
「来い」
短い命令だった。
凪は立ち上がる。
視線が集まるのを感じながら、部屋の中央まで歩いた。
床に座っている人間たちが、自然と円の形を作っている。
その真ん中に立つと、
自分が見世物の中心にいることがはっきり分かった。
胸の奥がじんわり熱くなる。
恥ずかしさだ。
逃げたくなる気持ちも、確かにある。
それでも足は止まらない。
蒼が見ているからだ。
蒼は凪をしばらく観察するように眺めていた。
その目は、怒っているわけでもない。
ただ、面白い反応を探している目だった。
蒼の嗜虐心は、怒りから来るものではない。
むしろ逆だ。
余裕があるときほど、強くなる。
「跪け」
蒼が言う。
凪は一瞬だけ息を止める。
部屋の視線がさらに濃くなる。
でも、ゆっくり膝をついた。
床の冷たさが膝に伝わる。
誰かが笑う。
「ほんとにやるんだ」
蒼はその声を気にしない。
ただ凪を見ている。
「顔上げろ」
凪は顔を上げる。
蒼と視線が合う。
その距離は、部屋の向こう側なのに、妙に近く感じた。
蒼は少しだけ笑った。
「恥ずかしい?」
凪は答えに詰まる。
嘘をつく意味はない。
「……うん」
正直に言った。
部屋がざわめく。
「言った」
「正直だな」
でも蒼は笑わなかった。
むしろ、その答えを聞いた瞬間、
目の奥が少しだけ鋭くなる。
凪はそれを見て、胸が小さく跳ねた。
ああ、と思う。
今の答え、蒼を煽った。
蒼はゆっくり立ち上がった。
床に座る人たちの間を歩き、凪の前まで来る。
距離が一気に近くなる。
凪は自然と息を浅くした。
蒼はしゃがみ込む。
そして凪の顎を指で軽く持ち上げた。
逃げるほど強い力ではない。
でも、拒否する余地はない。
凪の顔が上を向く。
蒼の目が、至近距離で凪を観察している。
「顔、赤い」
蒼は小さく言った。
それは責める声じゃない。
むしろ、嬉しそうな声だった。
「いいな」
その言葉を聞いた瞬間、凪の胸の奥がぎゅっと縮む。
恥ずかしい。
でも、同時に――
蒼の視線から逃げたくない。
そんな矛盾した感情が、胸の中で絡まり始めていた。