テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
きょRa
蒼が凪の唇に触れたあと、部屋の空気はすぐに元に戻った。
笑い声。
グラスの音。
誰かがスマホで動画を流している。
まるで、さっきのことが大した出来事じゃないみたいに。
蒼も同じだった。
ベッドに座り直し、グラスを傾けている。
凪だけが、まだその場に立ったままだった。
胸の奥が妙にざわつく。
さっきの触れ方。
軽いキス。
あれは――
蒼にとって、ただのノリだったのかもしれない。
そう思うと、胸の奥が少し重くなる。
「凪」
誰かが呼んだ。
振り向くと、ソファの男が笑っている。
「こっち来いよ」
軽い声。
凪は少し迷う。
でも、蒼の部屋で呼ばれて断る理由もない。
数歩近づく。
男は凪を見上げて言った。
「さっきのさ」
ニヤニヤしている。
「マジなの?」
凪は答えに詰まる。
「何が」
男は肩をすくめる。
「蒼の言うことなら何でもってやつ」
周りがまた笑う。
凪は言葉を探す。
そのときだった。
後ろから蒼の声が聞こえた。
「こいつ?」
蒼はグラスを揺らしながら言う。
「別に深い意味ないだろ」
軽い声だった。
「ノリだよ」
凪の胸が一瞬止まる。
蒼は続ける。
「真に受けんな」
周りが笑う。
「ひでえ」
「蒼、最低」
でもそれは責める声じゃない。
ただの笑いだ。
蒼は気にしていない。
むしろ少し笑っている。
凪は蒼を見る。
蒼は凪を見ていなかった。
それが妙に遠く感じた。
凪の胸の奥で、何かが静かに崩れる。
分かっていたはずだ。
蒼はそういう人間だ。
でも、さっきの瞬間だけは
少し違う意味があるんじゃないかと――
思ってしまった。
それが恥ずかしい。
自分が馬鹿みたいだ。
凪は小さく息を吐く。
そして言った。
「……ごめん」
声は小さい。
誰に向けたのか、自分でもよく分からない。
蒼がようやく顔を上げる。
「何が」
凪は首を振る。
「なんでもない」
凪は玄関の方へ歩く。
その動きに、何人かが気づく。
「帰るの?」
誰かが言う。
凪はうなずく。
「うん」
部屋の空気が少し変わる。
今まで凪が自分から帰ろうとすることは、ほとんどなかったからだ。
蒼が言う。
「もう?」
軽い声。
凪は振り向かない。
「明日早いから」
嘘だった。
でも、ここにいる理由ももうない。
靴を履く。
ドアノブに手をかける。
そのとき、後ろから蒼の声が聞こえる。
「凪」
凪は止まる。
振り向かない。
蒼は数秒黙ってから言った。
「……別に」
グラスを置く音。
「そこまで本気になるなよ」
その言葉は、悪気のない声だった。
でも凪の胸には、深く刺さる。
凪は少しだけ目を閉じる。
それから静かに答える。
「なってない」
ドアを開ける。
冷たい夜の空気が入ってくる。
凪は振り返らなかった。
そのまま部屋を出る。
ドアが閉まる。
部屋の中に、少しだけ沈黙が落ちた。
蒼はしばらく動かなかった。
グラスの氷が、静かに溶けていた。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!