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澪は、気づけば伊藤のデスクから一歩、距離を取るようになっていた。


意識して避けているわけではない。

声をかけないと決めたわけでもない。


ただ、以前なら自然にしていた動作を、しなくなっただけだった。


「伊藤さん、これ」


そう言いながら書類を手渡す位置が、少し遠い。

指先が触れない距離。

伊藤は気にした様子もなく、受け取る。


「ありがと」


「はい」


それだけのやり取り。

声の調子も、表情も、変わらない。


澪自身、理由を言語化できていなかった。


「違和感がある」と言ってしまえば簡単だが、それでは雑すぎる。


確かな証拠はない。

決定的な出来事もない。


ただ、事件が終わったあと、

伊藤が“戻りすぎている”と感じただけだった。


——終わり方に、引っかかりが残る事件のあと。

普通なら、どこかに余韻が残る。

言葉が少なくなったり、逆に軽口が増えたり。


だが伊藤は、最初から最後まで同じだった。

同じ温度。

同じ距離感。

同じ無関心。

それが、澪には少しだけ、不自然に見えた。


「澪、次の依頼の整理できた?」


燈に声をかけられ、澪ははっとする。


「はい。今、要点まとめてます」


「助かる」


澪は頷き、キーボードに向き直る。

画面には、次の依頼の概要が表示されている。


——まったく別の事件。

関連性はない。

調査対象も、状況も違う。

それでも、澪の思考は、ふと戻ってしまう。


あの事件で、

伊藤は「知っていた」ように見えた瞬間が、何度かあった。


推測では説明できる。

経験則、と言われれば納得もできる。


だがそれは、

“知らなければ辿り着かない角度”だった気もする。


「……考えすぎ、だよね」


澪は、小さく息を吐いた。


探偵社で働く以上、

疑うことは仕事の一部だ。


だが同時に、

疑いすぎないことも、ここでは暗黙のルールだった。


信頼が前提。

壊さないための距離。


「澪?」


玲が、不意に声をかける。


「少し、疲れてない?」


「いえ。大丈夫」


即答だった。


「そう。無理はしないで」


「ありがとう」


玲はそれ以上踏み込まなかった。


澪が“言わない距離”を選んでいることを、察したのかもしれない。


伊藤は、相変わらず黙々と作業をしている。

視線が合うことはない。


——それでいい。


澪はそう思った。


気づいてほしいわけではない。

問い詰めたいわけでもない。


ただ、自分の中に生まれた“ずれ”を、

そのまま放置することができなかっただけだ。


距離を取る。

声を減らす。

観察する。


それは疑いではなく、保留だった。


真相を求めるわけでもない。

正しさを暴くつもりもない。


ただ、

「何もなかったことにする」には、

澪は少しだけ、敏感すぎた。


探偵社の中で、

静かに、見えない線が一本引かれる。


誰にも宣言されず、

誰にも共有されない線。


その線の存在を、

意識しているのは——

今のところ、澪だけだった。

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