テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
相談者は、椅子に浅く腰掛けたまま視線を落としていた。
背中が張ったまま、息の仕方だけが分からない、そんな沈黙。
「今日は?」
問いは短い。促すでも、和らげるでもない。
「……自分の気持ちが、よく分からないです」
間を空けて、言葉が落ちた。
「分からない、で来たのか」
確認するような声音。
「はい」
「具体的には」
相談者は少し考えてから、言葉を探すように続ける。
「嫌なのか、平気なのか、
後からじゃないと分からない」
「後から?」
「終わってから、
あれ、嫌だったなって思う」
「その場では?」
「何も感じてないです」
その答えに、日下部はほとんど間を置かなかった。
「感じてないんじゃない。
感じないようにしてるだけだ」
相談者は返事をしない。否定も肯定もできず、ただ沈黙する。
「感情が遅れて出る人間は、
珍しくない」
説明口調ではない。ただ事実として告げる。
「ただし、
それを“信用しない”ようになると厄介だ」
「信用しない?」
「どうせ後で変わる、
どうせ本音じゃない、
そう思い始めるだろ」
相談者は黙ったまま、指先に力を入れる。
「結果、どうなる」
問いは淡々としている。
「……何も決められなくなります」
「そう」
日下部は小さく頷いた。
「好き嫌いも、
行きたい行きたくないも、
全部保留」
「はい」
「で、他人の判断に従う」
相談者は小さく息を吸う。その反応を見逃さず、日下部は続けた。
「それ、楽だろ」
「……一瞬は」
「だが」
視線を外さない。
「後から来る感情が、一気に押し寄せる」
相談者は言葉を失う。
「怒りも、疲れも、まとめてな」
握られた指が、わずかに震える。
「自分の感情を疑い続けた人間は、
最後に“何も感じないフリ”しか残らない」
相談者は少し迷ってから、声を出した。
「それ、直せますか」
「直す、じゃない」
即答だった。
「先に小さく信じる」
「小さく」
「一瞬でも引っかかったら、
それを無視しない」
「でも、
間違ってるかもしれない」
「間違っていい」
日下部は感情を挟まない。
「感情に正解はない」
「……」
「あるのは、
感じた事実だけだ」
沈黙が落ちる。
それは拒絶ではなく、飲み込むための時間だった。
「自分の感情を裏切り続けた人間は、
最後、自分の人生も他人事になる」
「……怖いです」
「正常だ」
日下部は机上の書類を閉じる。
「今日はそれだけ覚えとけ」
最後に、念を押すように言った。
「自分の感情は、
遅れても嘘じゃない」
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!