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その夜の部屋の空気は、最初から少し重かった。
人数はいつもより多い。
知らない顔も何人かいる。
笑い声は多いのに、どこか落ち着かない。
誰かが何かを期待しているような、そんな空気だった。
凪はそれを感じ取っていた。
玄関の横、いつもの場所に座りながら、
なんとなく胸の奥がざわつく。
理由ははっきりしない。
ただ、こういう夜は大抵――
よくない方向に転がる。
「凪」
名前を呼ばれて顔を上げる。
蒼だった。
ベッドに座ったまま、グラスを指先で回している。
「こっち」
短い一言。
凪は立ち上がる。
部屋の中央まで歩くと、自然と視線が集まった。
それが、もう当たり前になっている。
誰も隠さない。
「何か起きる」と分かっている目だ。
凪は蒼を見る。
蒼は少しだけ笑っていた。
機嫌が悪いわけではない。
むしろ逆だ。
こういうときの蒼は、どこか楽しそうだ。
それが分かるから、凪の胸は少しだけ苦しくなる。
「今日さ」
ソファに寝転んでいた男が言った。
「聞いたんだけど」
蒼を見る。
「こいつ、何言われても断らないんだって?」
部屋に笑いが広がる。
冗談半分の声。
でも、その裏にあるのは好奇心だった。
蒼は少し肩をすくめる。
「知らね」
その答えは否定でも肯定でもない。
だからこそ、余計に空気がざわつく。
男は凪を見る。
「ほんと?」
凪は答えに迷う。
視線が一斉に向く。
蒼の視線も、その中にある。
逃げたくなるような重さ。
でも――
凪は小さく息を吐く。
「……蒼が言うなら」
その言葉を聞いた瞬間、
部屋が一瞬だけ静かになった。
誰かが小さく「うわ」と呟く。
蒼も少し驚いた顔をした。
凪は自分でも分かっていた。
今の言葉は、
自分で自分の逃げ道を消した。
でも、なぜか後悔はあまりなかった。
ただ、胸の奥が重い。
蒼は凪を見つめる。
数秒。
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それから、ゆっくり立ち上がった。
近づいてくる。
凪の前で止まる。
距離が近い。
蒼は少し首を傾ける。
「なんで」
小さく言う。
「そこまで言うの?」
凪はすぐには答えられなかった。
正直、自分でもよく分からない。
最初はただの流れだった。
気づけばこうなっていた。
でも――
蒼が自分を見る目が、
少しだけ変わる瞬間がある。
それを見ると、離れられなくなる。
凪は視線を下げる。
「……分かんない」
本当のことだった。
蒼はしばらく黙る。
そして、小さく笑った。
「馬鹿だな」
その言い方は、
いつもより少しだけ優しかった。
それが、余計に凪の胸を締めつける。
そのとき、後ろから声が飛んだ。
「蒼」
振り向く。
ソファの男が笑っている。
「責任取れよ」
部屋がまたざわつく。
「そこまで言わせたんだからさ」
「ほんとに従うのか試してみろよ」
笑い声。
煽る声。
面白がる視線。
凪の背中に冷たいものが走る。
逃げ場がない。
でも、蒼がどうするのか――
それだけが気になっていた。
蒼は黙ったまま、凪を見る。
凪も蒼を見る。
数秒。
その沈黙は、
部屋の誰よりも重かった。
やがて蒼は小さく息を吐く。
「……ほんと」
そして凪の肩に手を置く。
「お前、めんどくさいな」
その言葉は冷たいのに、
どこか諦めたようでもあった。
凪の胸の奥で、
何かがゆっくり沈んでいく。
それは安心なのか、
それとももっと別のものなのか。
凪自身にも、まだ分からなかった。