テラーノベル
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夜。
家は静かだった。
テレビの音もない。
話し声もない。
“誰もいない静けさ”じゃない。
いるのに、音がない。
遥は靴を脱ぐ。
廊下に上がる。
足音を立てない。
癖。
意味はないのに、やめられない。
リビングの扉は少し開いている。
光が漏れている。
中に、いる。
遥は通り過ぎようとする。
「遅い」
止まる。
声。
低い。
振り返らない。
「聞こえてんだろ」
仕方なく、扉を押す。
開く。
兄――晃司がソファに座っている。
スマホを見ている。
視線は上げない。
「何時だと思ってんの」
時計は見ない。
答えは求められていない。
「……部活」
適当な理由。
本当でも嘘でもいい。
「ふーん」
興味のない返事。
でも、それで終わらないのは分かってる。
沈黙。
数秒。
その“間”が合図になる。
「学校、どうだった」
何気ない問い。
でも、逃げ道はない。
「別に」
短く返す。
それが一番安全。
晃司が、ゆっくり視線を上げる。
「別に、ね」
繰り返す。
その言い方で分かる。
外した。
「最近さ」
スマホをテーブルに置く。
「静かじゃね」
心臓が一拍遅れる。
(なんで)
言ってない。
何も。
「前みたいにさ」
晃司が立ち上がる。
ゆっくり。
距離が縮まる。
「分かりやすくないっていうか」
目の前。
逃げ場はない。
「つまんなくない?」
その一言。
遥の喉が固まる。
(なんで知ってる)
言葉にしてない。
誰にも。
学校のことも。
昨日のことも。
今日のことも。
「なあ」
顎を掴まれる。
上を向かされる。
「楽しい?」
問い。
でも答えは決まってる。
「……別に」
反射。
それしか出ない。
次の瞬間。
頬に衝撃。
横に弾かれる。
「それ、禁止な」
淡々と。
「“別に”ってやつ」
ルール。
新しい。
理由はない。
ただの更新。
「ちゃんと答えろよ」
髪を掴まれる。
引き戻される。
「楽しいのかって聞いてんの」
近い。
息がかかる距離。
遥の頭の中で、昼の光景が一瞬だけよぎる。
パンを差し出されたこと。
ノートを指摘されたこと。
殴られなかったこと。
(楽だった)
最悪の記憶。
「……」
口が開く。
でも、
「は?」
晃司の声が先に落ちる。
「黙ってんじゃねぇよ」
腹に一発。
空気が抜ける。
膝が折れる。
床に手をつく。
「答えろって言ってんだろ」
もう一発。
背中。
息が整わない。
でも、考える余裕はない。
答えないと、続く。
答えても、続く。
でも、答えない方が長い。
「……楽じゃない」
出る。
掠れた声。
嘘。
でも、これしかない。
晃司が少しだけ止まる。
「へえ」
興味を持った声。
「なんで」
質問が来る。
一番まずいやつ。
理由。
作らないといけない。
でも、本当の理由は言えない。
“楽だったから”。
それは使えない。
「……別に」
出てしまう。
癖。
反射。
しまった、と思った瞬間。
髪を強く引かれる。
「今、何つった?」
低い。
さっきより低い。
「それ禁止って言ったよな」
床に押し付けられる。
視界が歪む。
「ルール守れねぇの?」
足先が視界に入る。
次、来る。
「学校でもさ」
唐突に。
晃司の声が変わる。
少しだけ軽くなる。
「ちゃんとやってんの?」
心臓が止まる。
(やめろ)
「変なことしてねぇよな」
繋がる。
全部。
「目立ったり」
足が腹に入る。
鈍い衝撃。
「逆に」
もう一発。
「大人しくなりすぎたり」
息が漏れる。
声にならない。
「バランス大事だからな」
その言葉。
昼に聞いたのと、同じ構造。
違う人間のはずなのに、言ってることが、同じ。
「壊れたら終わりだし」
軽く笑う。
「でも、壊れねぇと意味ねぇし」
踏みつけられる。
ゆっくり。
逃がさない重さ。
遥の頭の中で、蓮司の声が重なる。
──順番変えただけ
──長く持つから
(同じだ)
違う場所。
違う人間。
でも、やってることが同じ。
「なあ」
晃司がしゃがむ。
視線を合わせる。
「ちゃんとやれよ」
その一言。
意味は説明されない。
でも分かる。
学校でも。
家でも。
役割は一つ。
壊れきらないまま、壊れ続けること。
「分かった?」
問い。
遥は頷くしかない。
それ以外は許されない。
「声」
晃司が言う。
「出てねぇぞ」
要求。
遥の喉が震える。
「……わかった」
小さく出す。
それでやっと、足が離れる。
解放。
でも、終わりじゃない。
晃司は立ち上がる。
「風呂入れよ」
何事もなかったみたいに。
スマホを手に取る。
会話は終わり。
遥は床に残る。
動けない。
でも、起きる。
起きないと、次が来る。
立ち上がる。
足が少し揺れる。
廊下に出る。
扉を閉める。
音を立てない。
そのまま、壁に手をつく。
呼吸が浅い。
頭の中がうるさい。
学校のこと。
さっきのこと。
重なる。
混ざる。
区別がつかない。
(同じじゃない)
同じじゃない。
でも、
(繋がってる)
切れてない。
最初から。
どこにも。
逃げ場なんて、最初からなかった。
(……最悪だ)
でも、それだけじゃない。
一番奥に残る感覚。
昼の、あの一瞬。
(……楽だった)
それがまだ残っている。
消えない。
それが、何より壊れている証拠だった。
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