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廊下の端。
昼休みの終わりかけ。人の流れが戻り始める前の、短い空白。
遥は壁にもたれて立っていた。
座らない。
座ると、そのまま動けなくなる気がするから。
足音が近づく。
振り向かなくても分かる。
日下部だ。
来るだろうと思っていた。
来ない可能性も、頭では分かっている。
でも、来る前提で身体が構えている。
足音が止まる。
少しだけ距離を空けて。
「……ここ、静かだな」
日下部の声。
柔らかい。
気を遣っているのが分かる。
遥は、頷かない。
否定もしない。
ただ立っている。
沈黙。
日下部が、少しだけ近づく。
近づきすぎない距離で止まる。
「体調は」
聞きかけて、言葉を切る。
代わりに、
「最近、ちゃんと寝てるか」
言い直す。
遥は、答えない。
数秒遅れて、
「寝てる」
短く。
事実かどうかは、自分でも分からない。
眠っている時間はある。
でも、寝ている感じはない。
日下部は、それ以上聞かない。
聞けない。
それが分かるから、遥は視線を逸らす。
――距離を取る。
遥は最近、それを意識している。
無意識だったものを、意識に上げて。
近づきすぎない。
頼らない。
確認しない。
確認したくなる前に、離れる。
屋上のあと、
日下部が「いる」と答えた瞬間の、自分の身体を思い出す。
あの、力の抜け方。
あれはまずい。
あれを、覚えられたら終わる。
安心した、とかじゃない。
救われた、とかでもない。
ただ、
“いなくならない可能性がある”
そう思った瞬間、身体が反応した。
あの反応は、危険だ。
期待になる。
前提になる。
依存になる。
――やめないと。
遥は、壁から背中を離す。
姿勢を直す。
「俺、戻る」
唐突に言う。
まだ昼休みは終わっていない。
でも、終わりかけている。
微妙なタイミング。
日下部が少しだけ眉を動かす。
「まだ時間あるだろ」
「うん」
遥は頷く。
頷くけど、
「でも、戻る」
理由は言わない。
理由を言うと、止められる気がする。
止められたら、残る理由ができてしまう。
それは避けたい。
日下部は、数秒黙る。
何かを言おうとして、やめる。
「……分かった」
それだけ。
引き止めない。
そのことに、遥は少しだけ安堵する。
同時に、少しだけ胸がざわつく。
――引き止めない。
それが普通だ。
正しい距離だ。
望んだ形だ。
なのに、身体のどこかが、微妙に反応する。
遥はそれを無視する。
「じゃ」
短く言って、歩き出す。
数歩進んでから、
足音がついてこないのを確認する。
振り返らない。
振り返ると、
そこにいるかどうかを確かめてしまうから。
確認はしない。
前提にもしない。
遥は、廊下の角を曲がる。
視界から日下部が消える。
消えた瞬間、
ほんの少しだけ、呼吸が浅くなる。
でも、そのまま歩く。
止まらない。
――距離を取る。
助けられた事実は消えない。
でも、近づけば近づくほど、
“次”が重くなる。
またあの場所に行ったら。
また止められたら。
また同じ顔をさせたら。
それは、もう一度傷つけることになる。
だから、最初から距離を置く。
必要以上に話さない。
確認しない。
頼らない。
そうすれば、
失望させる回数も減る。
そう思っている。
教室のドアの前で、遥は一瞬だけ立ち止まる。
手をかける前に、息を整える。
大丈夫。
普通に戻るだけ。
日下部はいない。
見ていない。
確認もしない。
それでいい。
ドアを開ける。
いつもの音。
いつもの空気。
席に戻る。
ノートを開く。
ペンを持つ。
文字が、少しだけ滲む。
でも、書く。
止まらない。
距離を取る。
それが、今できる唯一の調整だった。