テラーノベル
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午前十時を少し回った頃、よはく探偵社のドアがノックされた。
「はーい」
真琴がいつもの調子で立ち上がり、ドアを開ける。
そこに立っていたのは、スーツ姿の男だった。やや着崩れていて、ネクタイは緩み、目の下に薄く隈がある。
「……久しぶり。真琴」
「……へっぽこ?」
名前を呼んだ瞬間、男はわずかに肩を落とした。
「その呼び方、やめてくれ。現場じゃ立場が逆になる」
「ここ、現場じゃないですし」
真琴はにこやかにそう返し、奥へと手で示す。
木津は小さく息を吐いてから、探偵社の中へ足を踏み入れた。
玲は既に資料を机に広げていて、燈はソファに腰を落としたまま、露骨に眉をひそめる。
「警察が民間探偵に何の用だよ」
「協力要請だ」
木津は即答した。
「正式な委託じゃない。あくまで“相談”だ」
「一番厄介なやつですね」
澪が控えめに言う。指先を唇に当てたまま、木津の様子を静かに観察していた。
木津は苦笑した。
「否定はしない。けど、こっちも表じゃ動けない」
彼が差し出したのは、簡素なファイルだった。
中身は、事故死と処理された一件の概要。
「三日前、河川敷で見つかった遺体だ。身元は確認済み。事故扱いで終わってる」
「それを、わざわざ持ってくるってことは」
玲が淡々と続きを促す。
「事故じゃない可能性がある、ってことですね」
「断定はできない」
木津はそう前置きしてから、言葉を選ぶように続けた。
「ただ、現場が……きれいすぎた」
燈が鼻で笑う。
「きれい? 遺体が出て?」
「不自然なほど、余計なものがない」
木津は視線を落とす。
「足跡、争った痕跡、第三者の介入を示す要素。全部“ない”。
まるで、事故として成立する最低限だけが置かれてた」
真琴は、黙ってその言葉を聞いていた。
胸の奥に、わずかな引っかかりが残る。
「警察としては、どう判断してるんですか?」
「事故で処理済みだ」
木津は即答した。
「それ以上でも、それ以下でもない」
その言い切りが、逆に真琴の違和感を強めた。
「……木津さん」
「ん?」
「それ、納得してます?」
一瞬、木津は答えなかった。
視線を逸らし、ファイルの端を指で叩く。
「納得してるかどうかは、問題じゃない」
「問題じゃない、ですか」
「問題にできない、が正確だ」
室内が静まり返る。
玲が資料をめくり、澪は何かに気づいたように目を伏せる。
燈だけが、苛立ったように舌打ちした。
「要するにさ。警察の中で触れちゃいけない空気があるってことだろ」
「……ああ」
木津は否定しなかった。
「だから、お前たちに見てほしい。
警察じゃない視点で」
真琴は、ファイルに手を置いた。
「引き受けるかどうかは、皆で決めます」
「わかってる」
木津は立ち上がり、頭を軽く下げた。
「無理にとは言わない。ただ……」
言いかけて、言葉を止める。
「ただ、似てるんだ」
「何に?」
「昔、俺が関わった事件に」
それ以上、彼は語らなかった。
木津が去ったあと、探偵社にはしばらく沈黙が残った。
「……面倒くさそう」
燈が最初に口を開く。
「でも、放っとけない顔してた」
真琴は、小さく笑った。
「木津さん、嘘つくときはもっと分かりやすいですから」
澪が、ぽつりと言う。
「この事故……
“終わらせ方”が、上手すぎます」
玲は一瞬だけ真琴を見る。
「調べますか?」
真琴は、少しだけ間を置いてから答えた。
「ええ。
ただし――深入りしすぎないように」
その言葉が、どれほど守られない約束になるか。
この時点で、誰もまだ知らなかった。
よはく探偵社の一日は、いつも通りに始まった。
だが、確かに――
“余白”は、そこに生まれていた。
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