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その動画は、最初はただの冗談だった。
誰かがスマホで撮った短い映像。凪が床に座っているところ、女たちが笑っているところ、そして「蒼が嫌がるから」と凪が静かに言うところ。それだけの、ほんの数十秒の動画だった。
最初は、その場にいた数人の中だけで回っていた。
沙希の友達のグループチャットに送られて、そこにいる何人かが笑いながら保存して、また別の友達に見せる。その程度の広がり方だった。
だが、そういうものは、一度誰かのスマホに入ってしまうと、簡単に止まらない。
「これほんと?」
「やばくない?」
「この人なに?」
笑いながら転送されるうちに、動画は少しずつ知らない場所へ流れていった。
凪は、そのことをしばらく知らなかった。
部屋に人が来るのは相変わらずだったが、人数はむしろ減ったくらいだった。沙希が友達を連れてくる日もあれば、来ない日もある。蒼はいつも通り勝手に来て、冷蔵庫を開けて、食べ物を探して、ソファに寝転ぶ。
変わったのは、外だった。
大学の廊下で、凪の方を見て笑う人間が増えた。
すれ違うときに、小さく囁く声がある。
最初は気のせいだと思った。だが、それは何日か続いた。知らない顔の人間までが、凪の方を見て何か言うようになった。
ある日の昼休み、凪が購買から戻る途中だった。
廊下の角で、三人組の男がスマホを覗き込んでいた。凪が近づくと、そのうちの一人が顔を上げる。
一瞬だけ目が合った。
それから、男はスマホの画面と凪の顔を交互に見た。
「あ」
その声は、小さかったがはっきり聞こえた。
残りの二人も顔を上げる。
「え、まじ?」
一人が笑う。
「本人じゃん」
凪は足を止めない。横を通り過ぎようとする。
だが、そのとき後ろから声が飛んだ。
「犬」
凪の足が、ほんの一瞬だけ止まった。
振り向かなかった。
そのまま歩き続ける。
背中の後ろで、笑い声が続いた。
その日の夕方、凪の部屋には蒼がいた。
ソファに寝転びながらスマホをいじっている。凪は台所で夕飯の準備をしていた。油の音が小さく続いている。
蒼はしばらく画面を見ていたが、ふと小さく笑った。
「へえ」
その声に、凪が振り向く。
蒼はスマホを軽く振った。
「有名じゃん」
凪は何も言わない。
蒼は起き上がり、画面を凪の方へ向ける。
そこには、見覚えのある映像が映っていた。床に座っている自分と、周りで笑っている女たち。
少しだけ音が漏れる。
『蒼が嫌がるから』
凪の声だった。
凪は視線を落とす。
蒼はその反応を見ながら、少し笑う。
「これ、もう結構回ってるよ」
軽い調子で言った。
「沙希の友達だけじゃないっぽい」
凪はしばらく黙っていた。フライパンの火を止める音だけが部屋に響く。
蒼はスマホをテーブルに置く。
「でもさ」
少し考えるように言う。
「嘘じゃないしな」
凪は何も答えない。
蒼はまた笑う。
「証明じゃん」
その言葉は、冗談みたいな調子だった。
だが、それを否定する人間は、この部屋にはいなかった。