最初に異変が起きたのは、会議室でも取調室でもなかった。廊下だった。
「……なあ、あの件さ」
声を潜めて言われる名前は、まだ具体的ではない。
だが“年代”と“部署”だけが一致している。
「例の失踪、あれ……単独じゃないよな?」
「さあな。昔の不正と、時期が近すぎる」
それだけで、空気が変わった。
確証はない。
資料も揃っていない。
だが、“繋がる気がする”という感覚だけが、内部を走り始める。
木津は、その会話を自販機の前で聞いていた。
缶コーヒーのプルタブに指をかけたまま、動かない。
(来たか)
そう思っただけだった。
恐怖はなかった。
驚きもない。
むしろ――
予定より、少し遅かったなという感覚に近い。
木津は知っている。
過去の不正事件。
帳簿が“偶然”欠けた日付。
その直後に始まった、説明のつかない失踪。
そして、それを追い始めた上司――
真琴の父。
「木津さん」
背後から声をかけられる。
若い刑事だ。
最近、異様に落ち着きがない。
「この資料……誰が見ていいんでしたっけ」
差し出されたファイルの背表紙を、木津は一瞬で理解した。
(それを、もう誰かが触ったな)
「俺はいい」
短く言って返す。
「課長に回せ」
「でも……」
「回せ」
若い刑事は、何か言いたそうに口を開きかけ、やめた。
それが今の内部の状態だった。
誰もが、一歩先を言えない。
木津は歩きながら思い出す。
真琴の父が、最後に言った言葉。
「木津。
俺が止まった場所は、覚えておけ」
あれは遺言じゃなかった。
引き継ぎ地点の指定だった。
その地点を、今――
誰かが、別のルートから踏み始めている。
(真琴か)
そう考えて、胸の奥が少しだけ重くなる。
木津は知っている。
真琴が「正義」を選ばないことを。
父と同じ轍を踏まないよう、
“完成させない”選択をする人間だということを。
だからこそ、今起きている。
断片だけが、複数の場所に落ちる。
全体像は見えない。
だが、知っている者だけが、繋がってしまう。
警察内部は、疑心暗鬼に包まれ始めていた。
「誰が調べてる?」
「どこまで掴まれてる?」
「……俺たちの名前は?」
久我の名前も、噂に出始めている。
だが、奇妙なことに――
久我自身は何もしていない。
資料を出したわけでもない。
情報を渡したわけでもない。
それでも、立場が揺れる。
木津は分かっている。
久我が伏せたのは、
“真実”ではなく、接続点だ。
その接続点が、今――
内部の人間の頭の中で、勝手に補完され始めている。
木津は、真琴の父の机があった場所を見る。
今は、別の誰かの席だ。
だが、
あの人が途中で止めた理由を、木津は知っている。
「全部言えば、全部消える」
だから、言わなかった。
代わりに、使われる形で残した。
木津は、スマホを一度だけ見る。
通知はない。
それでいい。
(あいつらは、連絡してこない)
助けも求めない。
指示も仰がない。
ただ――
構造だけを、置いていった。
木津は、缶コーヒーを一口飲む。
苦い。
「……やり方、そっくりだな」
誰にも聞こえない声で呟く。
警察内部は、すでに動き出している。
誰かが命じたわけじゃない。
誰かが暴いたわけでもない。
理解してしまった人間が、勝手に動き始めただけだ。
木津は、立ち止まり、深く息を吐いた。
そして、何もしない。
それが、彼に残された唯一の役割だった。
廊下の曲がり角で、久我と木津はすれ違った。
立ち止まったのは、木津だけだ。
「……久我」
呼ばれて、久我は足を止める。
振り返らない。
「今、内部がざわついてる」
「知ってる」
即答だった。
「名前は出てない」
「出させてない」
それだけで、木津は察した。
「お前、線は引いたな」
久我は、少しだけ間を置く。
「引いたのは、線じゃない」
「……ああ」
木津は頷く。
「じゃあ、もう戻れないな」
「戻る気もない」
久我は振り返らず、そのまま歩き出す。
木津は、背中に向かって一言だけ投げた。
「娘さんのやり方だ」
久我は、ほんの一瞬だけ足を止めた。
だが、何も言わず、行ってしまう。
木津は、それを見送ってから小さく息を吐いた。
「……そうか」
それで全部、十分だった。






