テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
夜は静かだった。
静かすぎて、逆に耳鳴りがする。
遥は自分の部屋の床に座っていた。
椅子は使わない。
椅子は倒れる音が大きいから。
床の方がいい。
逃げるときも動きやすい。
膝を抱える。
暗闇の中で、家の音を数える。
冷蔵庫の低い振動。
時計の秒針。
配管のかすかな水音。
そして、階段。
(まだ)
足音はない。
なのに、身体はもう準備している。
背中が固まる。
肩が上がる。
呼吸が浅くなる。
来るときは、いつも急だ。
晃司はノックをしない。
ドアは、いきなり開く。
それを分かっているから、遥はドアを見ない。
ドアを見ると、
“待っている”ことがばれる気がする。
待っていない。
そう思い込まないと、頭がおかしくなる。
指先が震える。
寒いわけじゃない。
身体が覚えている。
何度も、
何年も、
同じ時間に、
同じ空気で、
同じ気配で。
だから、夜は
もう「今」じゃない。
全部、過去の続きだ。
突然。
廊下で床が鳴る。
一回。
それだけで、遥の背筋が硬直する。
(来た)
足音。
ゆっくり。
急がない。
急ぐ必要がないから。
この家で、
遥だけが逃げる側だから。
足音がドアの前で止まる。
沈黙。
この沈黙が一番長い。
晃司はよくこれをやる。
ドアを開けない。
立っているだけ。
それだけで、中の呼吸がどう変わるか聞いている。
遥は、呼吸を止める。
完全に止める。
胸が痛くなる。
肺が焼ける。
でも、動かない。
ドアが開く。
鍵はかけていない。
鍵をかけると壊されるから。
ゆっくり開く。
光が床に落ちる。
廊下の明かり。
晃司の影が長く伸びる。
「起きてんじゃん」
声は普通だった。
怒ってもいない。
笑ってもいない。
遥は顔を上げない。
床を見たまま言う。
「何」
その声が少しだけ掠れる。
晃司が部屋に入る。
足音。
床板が鳴る。
そのたび、遥の肩がわずかに揺れる。
晃司はそれを見る。
「最近さ」
言いながら、机の上の本を触る。
「静かだよな、おまえ」
遥は何も言わない。
「前はもうちょっと面白かったのに」
ページをめくる。
関係ない本。
でも読む。
「学校どう?」
沈黙。
晃司は笑う。
「聞いてんだけど」
遥は言う。
「普通」
その瞬間。
本が飛んだ。
壁にぶつかる。
乾いた音。
遥の身体がびくっと揺れる。
晃司はそれを見て、やっと少し楽しそうに笑う。
「それ」
ゆっくり近づく。
「それが見たいんだよ」
遥の前でしゃがむ。
顔を覗き込む。
遥は視線を合わせない。
床を見る。
晃司の指が、頬を軽く叩く。
「目」
遥は動かない。
もう一度叩く。
少し強く。
「目、上げろ」
遥はゆっくり顔を上げる。
晃司は少しだけ驚いた顔をする。
「……へぇ」
前髪を掴む。
「泣いてねぇ」
指で目元を押す。
「つまんね」
ぐい、と頭を引く。
首が後ろに反る。
「学校で誰か優しいのか?」
遥の喉が動く。
何も言わない。
晃司の目が細くなる。
「いるんだ」
違う。
いない。
でも、
日下部の顔が一瞬浮かぶ。
その一瞬。
それだけで十分だった。
晃司は嗤う。
「なるほどな」
手が離れる。
遥は少しだけ前に崩れる。
晃司は立ち上がる。
部屋を一周する。
何も壊さない。
何も蹴らない。
それが一番怖い。
「最近さ」
振り向く。
「おまえの顔」
笑う。
「面白くなくなった」
沈黙。
遥の胃が縮む。
晃司が近づく。
今度は急だった。
腹を蹴る。
鈍い音。
空気が抜ける。
遥は声を出さない。
床に倒れる。
晃司はそれを見下ろす。
「そうじゃねぇんだよ」
もう一度蹴る。
今度は背中。
骨が軋む。
「もっとさ」
足の先で遥の肩を押す。
「壊れろよ」
沈黙。
遥の呼吸が乱れる。
でも、声は出さない。
それを見て、晃司は少し首を傾げる。
「我慢大会?」
しゃがむ。
耳元で言う。
「……誰か見てる?」
遥の心臓が一瞬止まる。
「学校の誰か?」
指が背中を軽く叩く。
「それとも」
耳元で囁く。
「日下部?」
その名前。
それだけで、遥の指が床を掴む。
ほんのわずか。
でも、動いた。
晃司はそれを見逃さない。
笑う。
「やっぱいるじゃん」
立ち上がる。
そして、もう蹴らない。
それが一番きつい。
「今日はやめとく」
遥の呼吸が止まる。
「理由わかる?」
答えない。
晃司はドアに向かう。
振り向かないまま言う。
「おまえ」
ドアを開ける。
「壊れ方、変わった」
廊下の光。
「それ、面白い」
ドアが閉まる。
音が消える。
静寂。
遥は床に伏せたまま動かない。
数分。
いや、もっと。
やっと呼吸を吐く。
肺が痛い。
腹が痛い。
背中も痛い。
でも、それより。
胸の奥。
そこが一番気持ち悪い。
(……今)
思ってしまった。
少しだけ。
ほんの少しだけ。
さっき蹴られた瞬間、安心した。
頭がおかしい。
遥は目を閉じる。
思い出す。
廊下の端。
昼休み。
日下部の声。
あの距離。
あの空気。
(やめろ)
頭の中で、何度も言う。
やめろ。
やめろ。
やめろ。
でも、身体はもう知っている。
この家と、
学校と、
日下部の距離が、
どこかで繋がってしまったことを。
それが一番まずかった。