テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
王都の中央塔には、感情を測るための天球儀がある。
巨大な水晶の輪が幾重にも重なり、内部には淡く発光する霧が満ちている。人が中央に立てば、その霧が触れ、色を映す。怒りは深紅、畏れは灰、歓喜は淡金。愛は、最も純度の高い金色。
王妃候補の最終判定日。
塔の外まで貴族と市民が詰めかけていた。
彼女――エリュネ・ノクシアは、白い石床の上に立つ。
名前を呼ばれ、ゆっくりと天球儀の中心へ歩み出る。裾を引く衣擦れの音が、やけに大きい。
周囲では、すでに判定を終えた令嬢たちの色がまだ揺れていた。薔薇色、薄紫、淡い金。緊張と期待が混ざった色彩の残滓。
エリュネは何も考えないようにする。
考えれば、色が出ると教えられてきたから。
だが。
霧が彼女に触れた瞬間、塔の内部がしんと静まった。
何も起こらない。
霧はただ彼女の輪郭をなぞり、すり抜ける。
発光しない。
水晶の輪も、反応しない。
ざわめきが遅れて広がった。
「……再測定を」
測定官の声が硬い。
二度目。三度目。
結果は同じだった。
透明。
無色。
感情反応、なし。
それは前例のない判定だった。
王妃は、愛を抱いたとき星を生む。
星は国の加護であり、国力そのもの。
愛が視認できない者は、王妃になれない。
それが、この国の絶対だった。
「感情欠損の可能性が高いと判断します」
宣告は淡々としていた。
観衆の中に、あからさまな安堵と落胆が混ざる。候補が一人減った。それだけのこと。
エリュネは軽く頭を下げる。
驚きも、羞恥も、怒りも、湧いていない。
ただ、予想通りだと思った。
幼少の頃から、彼女の周囲では色が揺れていた。母の期待は金と薄桃のまだら。家庭教師の苛立ちは濁った橙。侍女の憐憫は鈍い青。
けれど彼女自身は、一度も発色したことがない。
笑えば周囲は桃色を帯びる。
礼を尽くせば、緑が落ち着く。
だが彼女の内側は、いつも静止していた。
塔を出ようとした、そのとき。
上階の回廊から、低い声が落ちる。
「待て」
王太子だった。
群衆が膝をつく。色彩が一斉に揺れる。
鮮烈な金色が、階上から流れ落ちるように広がった。
彼の感情は強い。
意志も、誇りも、責務も、すべてが濃い金に近い。
王太子はゆっくりと階段を降りてくる。
エリュネの前で足を止め、測定官を一瞥した。
「無色、か」
「は。記録に残る限り、初の事例にございます」
金色の光がわずかに揺れた。
王太子はエリュネを見下ろす。
「名は」
「エリュネ・ノクシアにございます」
「君は、自覚しているのか」
「はい。幼少より」
嘘ではない。
彼はしばらく彼女を観察する。
その視線は冷静だった。だが、色は濁らない。純度の高い金のまま。
「感情がないのか」
「あるのかもしれません。ただ、発色しないだけで」
王太子の眉がわずかに動く。
周囲が息を詰める。
本来なら、ここで彼女は退場するはずだった。
歴史の欄外へ。
だが。
「婚約を発表する」
塔の空気が凍った。
測定官が声を失う。
「殿下、それは――」
「王命だ」
反論は許されない。
エリュネは初めて、ほんのわずかな違和感を覚えた。
だがそれも、色にならない。
「理由を、伺っても」
彼女は静かに問う。
王太子は答える。
「君は安全だ」
「……安全」
「愛さない者は、裏切らない」
塔の天井越しに、昼の空が広がっている。
まだ星は見えない。
王太子の金色が、微かに揺らいだ。
それは怒りでも、喜びでもない。
決意の色だった。
エリュネは思う。
愛せない自分が選ばれたのなら、それは理にかなっている。
王妃は星を生む器。
自分は生まない。
ならば、政治的に最も扱いやすい。
「承知いたしました」
彼女は膝を折る。
周囲の色が激しく波打つ。
羨望、疑念、恐怖。
だが彼女の周囲だけが、静謐な無色のままだった。
そのとき。
誰にも気づかれぬほど淡く、塔の外れの空に、
極小の光が瞬いた。
色はなかった。
観測記録にも残らないほどの微光。
それが、ほんの一瞬だけ、確かに存在した。
エリュネは気づかない。
王太子も、まだ知らない。
無色の判定は、欠陥ではなかった。
それが証明されるのは、もう少し先のこと。