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沙希が凪の部屋に来ることは、いつの間にか特別なことではなくなっていた。
最初は蒼と一緒だったはずなのに、気づけば沙希は蒼がいなくても普通にチャイムを鳴らすようになっていたし、凪もそれを止める理由を見つけられないまま、ただドアを開けるようになっていた。
その日も、夕方にチャイムが鳴った。
凪は台所で野菜を切っていた手を止めて玄関に向かい、ドアを開ける。
そこに立っていたのはやっぱり沙希だった。
「蒼いないけど」
凪が言うと、沙希はまるでそれを知っていたみたいに肩をすくめて笑った。
「知ってるよ。だから来た」
そう言って、凪が何か言うより先に靴を脱ぎ、勝手に部屋に上がる。
凪は特に止めなかった。
沙希はソファに座ると、テーブルの上に置いてあったリモコンを手に取り、勝手にテレビをつけた。
それからしばらく番組表を眺めて、興味がないとわかるとすぐに消す。
部屋は静かだった。
「ねえ凪」
不意に沙希が言った。
「ん?」
凪は台所から振り向く。
沙希はソファの背もたれに体を預けながら、スマホをいじっていた。
「コンビニ行ってきて」
あまりにも普通の調子だった。
お願いというより、ただ思いついたことを口に出したみたいな声だった。
凪は一瞬だけ手を止める。
「今?」
「うん。アイス食べたい」
視線はスマホから動かない。
凪は少しだけ考えたが、結局何も言わずに包丁を置いた。
財布を取り、玄関で靴を履く。
ドアを開けるとき、沙希が付け加える。
「チョコのやつね」
凪は振り返らずに「うん」とだけ答えて外に出た。
三分くらいでコンビニに着く。
アイスを二つ買う。
自分の分は特に考えず、なんとなく同じものを手に取った。
部屋に戻ると、沙希はさっきと同じ姿勢でスマホを見ていた。
袋をテーブルに置く。
「これ」
沙希は袋を開けて、中身を確認する。
「ありがと」
特に感謝しているような声ではない。
当たり前のことを確認するみたいな調子だった。
凪はまた台所に戻る。
包丁を手に取り、さっき途中だった野菜を切り始める。
しばらくして、沙希が言う。
「ねえ」
凪は振り向かない。
「うん」
「凪ってさ」
少し間があった。
沙希はアイスをかじりながら続ける。
「ほんとに断らないよね」
凪はキャベツを切りながら答える。
「そう?」
「うん」
沙希は笑う。
「普通さ、彼氏が入り浸ってる部屋に彼女が来てさ、コンビニ行けって言われたら」
少し考える。
「嫌がると思うんだけど」
凪は手を止めない。
「蒼の彼女だし」
それだけだった。
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沙希はその答えを聞いて、少し黙った。
それから、凪の背中を見ながら言う。
「ほんと犬みたい」
凪は何も言わない。
ただキャベツを切り続けている。
そのとき、玄関の鍵が回る音がした。
蒼だった。
ドアが開く。
蒼は部屋に入るなり靴を脱ぎながら言った。
「腹減った」
凪は振り向く。
「今作ってる」
蒼はソファに座る。
テーブルの上のアイスを見る。
「これなに」
沙希が答える。
「凪に買わせた」
蒼は少し笑う。
「へえ」
それから凪を見る。
「ついでにビールある?」
凪は少し考える。
冷蔵庫に一本だけ残っているのを思い出す。
「あるよ」
蒼はうなずく。
「出して」
凪は冷蔵庫を開けて、ビールを取り出す。
テーブルに置く。
蒼はそれを開けながら言う。
「便利だな」
沙希が笑う。
「でしょ?」
蒼はビールを一口飲む。
それから凪の方を見ながら、少しだけ笑った。
「だから言っただろ」
その言い方は、冗談みたいだった。
でも同時に、本気でもあった。
凪はまた台所に戻る。
フライパンに火をつける。
油の音が小さくはねる。
後ろでは、蒼と沙希が普通に話している。
笑い声も聞こえる。
凪はその声を聞きながら、料理を続ける。
包丁の音と、フライパンの音だけが、静かな部屋に混ざっていた。
それがいつの間にか、凪にとっては普通の音になっていた。