テラーノベル
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探偵社の照明は、夕方になると少し眩しすぎる。
古いビルの一室。
天井灯が白すぎて、机の上の紙がやけに無機質に見えた。
澪が、黒瀬の録音を書き起こした紙束を揃えながら言う。
「……やっぱり、名前が一個もないね」
確認するまでもない事実だった。
だが、澪は敢えて口にした。
「個人名ゼロ。部署名なし。役職なし。
事件番号すらぼかしてる。
ここまでやると、逆に“隠してる”って分かる」
燈が椅子に深く腰掛け、腕を組む。
「警察内部の人間だろ。
しかも、かなり上のほう」
断定に近い口調だった。
真琴は、父のノートを開いたまま、ページを指で押さえている。
「“上”って言い方も、黒瀬はしてない」
「してないな」
燈が頷く。
「でも、そう思わせる書き方はしてる。
責任の所在を、意図的に“個人”からずらしてる」
玲が、壁にもたれたまま言った。
「主語を消してる」
三人の視線が、玲に集まる。
「“誰がやったか”じゃなくて、
“どういう構造なら起きるか”だけ残してる」
玲は、机の上に置かれた紙を一枚引き寄せた。
そこには、真琴が書いた黒瀬の言葉がある。
「名前を出した瞬間に、話が終わる名前がある」
「これ」
玲は、そこを指で叩く。
「名前を出したら“終わる”って、どういう意味だと思う?」
澪が答える。
「スケープゴートになる」
「それもある」
燈が続ける。
「でも、それだけなら、黒瀬は名前を書いてる。
あいつは、誰かを切り捨てるのが怖くて黙ったタイプじゃない」
真琴は、静かに言った。
「名前を出したら、“事件が個人の問題になる”」
一瞬、空気が止まった。
真琴は続ける。
「父のノートも、同じところで止まってる。
個人名を書いた瞬間に、
不正事件も、失踪事件も、全部“その人の罪”で終わる」
澪が息を吸う。
「でも実際は、終わらない」
「うん」
真琴は頷いた。
「構造が残る。
同じ順番で、同じことが起きる」
燈が、低く言う。
「……久我だ」
名前が出た瞬間、
誰もそれを止めなかった。
だが、誰も頷きもしない。
「“久我がやった”って話じゃない」
真琴が、すぐに補足する。
「黒瀬も、父も、そこは書いてない」
玲が言葉を継ぐ。
「久我は、“伏せた側”だ」
「伏せた?」
「そう」
玲は、父のノートの一行を指差した。
――再調査用
※公式資料を信じるな
「公式にするために、切り落とした。
整合性のために、消した。
その役をやった人間」
澪が、はっとしたように顔を上げる。
「……だから警察を辞めてない」
「だから今も、警察にいる」
燈の声は、確信を帯びていた。
「黒瀬は、あの人を守ったんじゃない。
あの人が“構造の一部”になるのを拒否した」
真琴は、ゆっくりと父のノートを閉じた。
「久我は、黒でも白でもない」
自分に言い聞かせるように。
「“名前を書かなかった人”だ」
それは、罪を免れた人間の立場であり、
同時に、永遠に責任を引きずる立場でもある。
玲が、小さく息を吐く。
「じゃあ、次にやることは一つだね」
真琴は顔を上げる。
「名前を出さずに、思い出させる」
黒瀬が残したやり方。
父が途中でやめたやり方。
真琴は、はっきりと言った。
「久我を告発しない。
でも、久我しか分からない形で、投げる」
燈が、口角を少しだけ上げた。
「……警察向けの地雷だな」
「うん」
真琴は、もう迷っていなかった。
「踏むかどうかは、向こう次第」
夕方の光が、床に長く伸びている。
探偵社の部屋には、まだ静けさが残っていた。
だが、伏線の主語は、すでに定まっていた。
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