テラーノベル
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三月に入って、夜の空気が少しだけ柔らかくなった。
昼間は上着がいらない瞬間もあるのに、日が落ちるとまだ冷える。
冬と春の境目はいつも曖昧で、どちらとも言えない温度が街に残る。
真白が帰ってきたとき、部屋には明かりがついていた。
玄関を開けた瞬間に、暖房ではない暖かさがある。
キッチンの方から、鍋のふたが軽く触れる音がした。
「ただいま」
靴を脱ぎながら声をかける。
「おかえり、真白」
アレクシスの声がすぐ返ってきた。
真白がリビングに入ると、コンロの前でアレクシスが鍋を見ていた。
湯気がゆっくり上がっていて、部屋の中に出汁の匂いが広がっている。
「なに作ってるの」
「スープ。簡単なやつ」
アレクシスは振り向いて少し笑った。
「真白、最近帰るの遅いから」
真白はコートを椅子にかける。
「今日も?」
「今日は早い方」
「そうなんだ」
真白は鍋を覗き込む。
「いい匂い」
「味は普通」
「普通でいい」
真白は少しだけ肩の力を抜いた。
仕事のあと、こういう匂いがする部屋に戻ると、体の奥の緊張がゆっくりほどけていく。
アレクシスが火を弱めて、皿を二つ出す。
「真白」
「ん?」
「最近、忙しそう」
「まあ」
真白は椅子に座る。
「春の更新近いから」
「終わったら落ち着く?」
「たぶん」
スープがテーブルに置かれる。
湯気が二人の間に漂う。
しばらく黙って食べてから、真白がぽつりと言った。
「ねえ、アレク」
「うん」
「この前さ」
スプーンを持ったまま、少し考える。
「怖いって言ったじゃん」
アレクシスはゆっくり頷く。
「うん、言ってた」
真白は視線を皿に落とす。
「たぶんさ」
言葉を選びながら続ける。
「俺、置いていかれるのが嫌なんじゃなくて」
少しだけ息を吐く。
「一人になるのが、嫌なんだと思う」
部屋が静かになる。
アレクシスは何も急がない。
真白はスプーンを置いた。
「子供のとき、引っ越し多かったって言っただろ」
「うん」
「仲良くなっても、すぐ離れる」
少し笑う。
「だから、慣れてるつもりだった」
視線を上げる。
「でも、アレクといると」
少し言いにくそうにする。
「慣れなくていい気がする」
言ったあと、少しだけ照れた顔をした。
アレクシスは静かに聞いていた。
しばらくしてから、ゆっくり口を開く。
「真白」
「なに」
「俺、翻訳の仕事してると」
少し考える。
「いろんな文章読むんだ」
「うん」
「愛の言葉とかも、山ほど」
真白が少し笑う。
「仕事だな」
「うん」
アレクシスは真白を見る。
「でも、本当に好きな人に言う言葉って」
少しだけ間を置く。
「意外と、すごく普通なんだよ」
真白は黙って聞いている。
アレクシスは続ける。
「例えば」
声が少し柔らかくなる。
「帰ってきてほしいとか」
「一緒にご飯食べたいとか」
そして、真白の目を見る。
「隣にいてほしいとか」
真白は一瞬、視線を逸らした。
耳が少し赤くなっている。
「……それ、今言ってる?」
「言ってる」
真白は少し笑う。
「ストレートすぎる」
「翻訳しないで言ってるから」
その言い方に、真白は小さく息を吐いた。
そして、少しだけ椅子を引いて、アレクシスの方へ寄る。
「ねえ、アレク」
「うん」
「俺もさ」
少しだけ迷う。
でも、今回は途中でやめない。
「隣にいてほしい」
言葉は小さい。
でも、真っ直ぐだった。
アレクシスはすぐに何も言わない。
ただ、テーブルの上に置かれていた真白の手に、自分の手を重ねた。
強く握らない。
逃げない程度に、そっと。
「分かった」
短く言う。
真白はその手を見てから、少しだけ指を返す。
「……あとさ」
「うん?」
「春になったらどこか行くって話」
「覚えてる」
真白は少し笑う。
「別に遠くじゃなくていい」
「うん」
「桜とか」
窓の外をちらっと見る。
「一緒に見れたらいい」
アレクシスは頷く。
「じゃあ」
穏やかな声で言う。
「春になったら行こう」
真白は小さく「うん」と答えた。
湯気はもう少し薄くなっている。
でも、テーブルの上の手はまだ離れていない。
春は、もうすぐそこまで来ていた。