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麗太
海の紅月くらげさん
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扉が閉まる音がした瞬間、王太子は顔を上げた。
「どこへ行った」
低い声だった。
控えていた侍従が一瞬言葉に詰まる。
「……庭園へ」
「一人でか」
「はい」
その答えを聞いた瞬間、椅子が強く引かれた。
乾いた音が部屋に響く。
「なぜ止めなかった」
怒声ではない。
だが、それ以上に温度のない声だった。
侍従は言葉を失う。
「……失礼いたしました」
王太子はすでに歩き出していた。
書類も、会議も、すべてそのままにして。
廊下を進む足は速い。
制止する者はいない。
誰もが知っているからだ。
――あの人に関わることなら、止められない。
庭園に出た瞬間、王太子は視線を走らせた。
白い石畳。
朝の光。
その中に、一つだけ。
「……いた」
エリュネは、ただ歩いていた。
何も知らないように。
何も起きていないかのように。
王太子はまっすぐに歩く。
距離が一気に詰まる。
「何をしている」
エリュネが振り返る。
「あ」
一瞬、驚いた顔をした。
「おはようございます」
「質問に答えろ」
間を与えない。
エリュネは少しだけ困ったように言う。
「散歩です」
「一人でか」
「はい」
王太子は一歩近づく。
距離が近い。
「なぜだ」
「特に理由は――」
「あるだろう」
遮る。
エリュネは少しだけ黙る。
王太子の視線は外れない。
「……静かだから」
小さな声だった。
王太子は一瞬だけ言葉を止めた。
だが、すぐに言う。
「なら呼べ」
「誰をですか」
「私を」
エリュネは瞬きをする。
「あなたを?」
「そうだ」
即答だった。
「一人で出る必要はない」
王太子はさらに一歩近づく。
ほとんど距離がない。
「私がいればいい」
エリュネは何も言えなくなる。
王太子はそのまま続ける。
「護衛が必要なら付ける。
時間が必要なら作る。
場所が必要なら空ける」
淡々としているのに、逃げ道がない。
「だから」
彼は言う。
「一人で動くな」
命令に近い。
だが、響きは違った。
エリュネは小さく息をつく。
「……過剰です」
「分かっている」
「なら」
「やめない」
即答。
間すらない。
エリュネは少しだけ言葉に詰まる。
王太子は視線を逸らさない。
「何が起きるか分からない。
星のことも
外のことも
人のことも」
言葉が重なっていく。
「全部分からない」
その声は低い。
だが、揺れていた。
「だから」
一瞬、言葉が止まる。
それでも続ける。
「見えるところにいろ」
エリュネは静かに聞いていた。
王太子はさらに言う。
「手の届くところにいろ」
距離が近すぎる。
エリュネは少しだけ視線を逸らす。
「……それは」
「拒否するか」
かぶせるように問う。
エリュネは言葉を失う。
王太子は続ける。
「しないな」
決めつけだった。
「……なぜです」
「する理由がない」
エリュネは苦笑する。
「強引ですね」
「そうだ」
否定しない。
むしろ当然のように言う。
「お前に関しては」
一瞬だけ、声が低くなる。
「全部、強引でいい」
エリュネは息を飲む。
王太子は少しだけ視線を落とした。
「理屈はどうでもいい。
正しさもどうでもいい」
彼はゆっくり言う。
「星がどうとか
制度がどうとか
全部、後でいい」
顔を上げる。
まっすぐにエリュネを見る。
「お前がいなくなる方が問題だ」
その一言は、何より重かった。
エリュネはしばらく黙っていた。
やがて、小さく言う。
「……大げさです」
「違う」
即答だった。
王太子は一歩、さらに詰める。
「足りないくらいだ」
エリュネは言葉を失う。
王太子はそのまま手を伸ばす。
触れるか触れないかの距離で止める。
「ここにいろ」
静かな声だった。
「離れるな」
命令ではない。
願いでもない。
ただの決定だった。
エリュネはその手を見る。
少しだけ迷って。
そして、ほんのわずかに距離を詰めた。
触れる。
一瞬だけ。
王太子の指が、わずかに強くなる。
「……これでいい」
小さく言う。
エリュネは顔を上げる。
「何がですか」
「見失わない」
それだけだった。
王太子は手を離さない。
離す気もなかった。
庭園には誰もいない。
朝の光だけが二人を照らしている。
空に星はない。
それでも。
彼の視線の中には、確かに一つだけ。
逃がす気のない光があった。