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昇降口を出ると、空気が変わった。
夕方の匂い。
部活の声。
遠くでボールが弾む音。
全部、さっきまでいた場所と同じ“学校”のはずなのに、ここだけ切り離されたみたいに穏やかだった。
遥は一度、外の空気を吸う。
浅く。
それでも、教室の中よりはましだった。
日下部は、隣を歩いている。
何も言わない。
言葉を探しているのか、それとも最初から何も言うつもりがないのか、わからない沈黙。
校門を出て、しばらくしてから。
「……あれ、毎日か」
不意に、日下部が言った。
歩きながらの、独り言みたいな声。
遥は反応しない。
でも、その問いが何を指しているのかは分かる。
昼のこと。
放課後のこと。
あの部屋のこと。
「……答えなくていい」
すぐに続く言葉。
逃げ道を用意する言い方。
「ただ、そう見えたってだけ」
“見えた”。
確信じゃない形で置かれる言葉。
遥は、ほんの少しだけ息を吐く。
「……別に」
出てきたのは、やっぱりそれだった。
別に。
なんでもない。
たいしたことじゃない。
それ以外の言葉を持っていないみたいに。
日下部は、それ以上聞かない。
沈黙が戻る。
道が分かれる手前で、足が止まる。
ここから先は、方向が違う。
いつもなら、そこで終わる。
「じゃあな」で終わる距離。
でも今日は、少しだけ違った。
「……家、あっちだよな」
日下部が、遥の進む方を見る。
遥は、うなずく。
「……送る」
短く。
遥は一瞬だけ、顔を上げる。
「……いい」
反射的な拒否。
その言葉の奥にあるのは、遠慮じゃない。
“見せたくない”に近い何か。
日下部は、その意味を読み取る。
少しだけ間を置いてから、言い方を変えた。
「途中まででいい」
押しつけない距離。
それでも、完全には引かない距離。
遥は、答えない。
でも、歩き出す。
それが肯定の代わりになる。
並んで歩く。
さっきより、少しだけ歩幅が揃っている。
途中、何度か遥の足がわずかに遅れる。
そのたびに、日下部は気づかないふりで速度を落とす。
言葉はない。
けれど、“見ている”ことだけは分かる距離。
住宅街に入ると、人の気配が減る。
夕焼けの色が濃くなって、影が長く伸びる。
遥の家が見える位置まで来たとき、足が、わずかに止まった。
ほんの一瞬。
けれど、はっきりとした躊躇。
日下部は、その先を見ない。
家の外観も、玄関も、何も観察しないように視線を外す。
踏み込まないための配慮。
「……ここでいい」
遥が言う。
小さく。
でも、はっきりと区切る声。
日下部は頷く。
「……ああ」
それ以上、何も言わない。
背を向ける。
少し歩いてから、足が止まる。
振り返らないまま、言葉だけ落とす。
「……明日も来いよ」
軽く言ったつもりの言葉。
でも、その中身は軽くない。
“来ない選択”を、許していないわけでも、責めているわけでもない。
ただ、“来る前提”で言われることが、どこかで支えになる。
遥は、返事をしない。
代わりに、ほんの少しだけ顔を上げる。
日下部の背中が、遠ざかっていく。
完全に見えなくなってから、ようやく玄関の方へ向き直る。
ドアノブに手をかける。
その瞬間――
さっきまで外で保たれていた呼吸が、一気に浅くなる。
体が覚えている。
ここから先の空気を。
開ける前から、もう分かっている。
――ここは、“戻る場所”じゃない。
“戻される場所”だ。
ドアを開ける。
中の空気が、静かに絡みついてくる。