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橘靖竜
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録音は短かった。
再生時間は三分に満たない。
にもかかわらず、最初から最後まで聞き終えたとき、真琴は一度も息を吸えなかった気がした。
机の上に置いたスマートフォンの画面は、すでに暗くなっている。
けれど、そこから流れていた声だけが、まだ部屋に残っているようだった。
「……もう一回、流す?」
澪が言った。
促すでもなく、拒むでもなく、ただ確認するだけの声音だった。
真琴は小さく首を振る。
「いい。文字にしよう」
ノートを開き、ペンを持つ。
再生ボタンを押す代わりに、真琴はすでに頭の中に残っている声を引きずり出した。
黒瀬の声は、落ち着いていた。
弱っている様子も、感情的な揺れもない。
誰かに何かを訴える声ではなく、置いていくための声だった。
真琴は、一言一句を書き写す。
「……全部、偶然だったって言えば、楽なんだろうな」
「でも、それを言ったら、誰が一番助かるのかは、はっきりしてる」
「名前を出せば済む話じゃない。
出した瞬間に、話が終わる名前がある」
「線は、三本じゃない。
交わってないように見えて、同じ場所を通ってる」
「不正の話と、消えた人間の話と、今起きてること。
順番を間違えると、全部“別の事件”になる」
「俺が黙れば、たぶん一番きれいだ」
「でも、黙ったままじゃ、誰かが続きをやる」
「だからこれは、説明じゃない。
理解できたやつが、勝手に使えばいい」
書き終えたあと、真琴はペンを置いた。
玲が覗き込む。
「……妙だ」
「どこが?」
「感情がない」
即答だった。
「謝ってない。後悔してる感じも薄い。
それに――“俺は悪くない”とも言ってない」
真琴は黙って頷いた。
確かにそうだ。
黒瀬の言葉には、「俺は」「すまない」「許してほしい」が一切出てこない。
代わりにあるのは、
構造
順番
線
そういう言葉だけだった。
「これさ」
燈がノートを指でなぞる。
「説明じゃないって言ってるけど、本当に説明してないな。
肝心なところ、全部抜けてる」
名前は出ない。
部署も役職も出ない。
時間も、具体的な日付もない。
あるのは、「出せば終わる名前がある」という事実だけ。
「……わざとだよね」
真琴が言った。
「聞いた人が、勝手に補完するように」
黒瀬は、語っていない。
代わりに、考えさせる場所だけを残している。
真琴は、ページを一枚めくった。
そこに、父のノートの写しが貼られている。
同じだった。
父の調査メモも、途中で止まっている。
結論は書かれていない。
だが、読み進めると、ある地点に必ず行き当たる。
「……似てる」
思わず、声が漏れた。
「何が?」
「父のノートと。
答えを書いてないのに、答えの場所だけ分かる」
黒瀬の言葉も同じだ。
何も断定していないのに、
“どこを見ればいいか”だけがはっきりしている。
真琴は、黒瀬の最後の一文をもう一度見た。
「理解できたやつが、勝手に使えばいい」
「……使う、か」
澪が呟く。
「黒瀬、自分がどう使われるか、分かってたんだね」
「うん」
真琴は答えた。
「正しく理解される気なんて、最初からなかった」
この言葉は、免罪符でも遺書でもない。
告白ですらない。
罠に近い。
理解した人間が、
自分の立場や恐怖や過去を重ねて、
勝手に動いてしまう言語。
真琴はノートを閉じた。
「これを“真実”として出したら、終わる」
「じゃあ?」
「真実としては使わない」
燈が、少しだけ笑った。
「構造として使う?」
「うん」
黒瀬が避けた名前。
伏せた順番。
交わっていないように見せかけた線。
それを、揃えずに投げる。
答えを示さないまま、 思い出させる。
真琴は、静かに言った。
「これは、黙らなかった人間の言葉だ。
だから――」
ノートを胸に抱える。
「黙らない人間にしか、使えない」
部屋の外では、何事もなかったように夕方の音がしていた。
世界はまだ、何も知らない。
だが、もう戻れない線だけが、確かに引かれていた。