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扉が閉まる音がして、足音が遠ざかる。 それでも、すぐには動けなかった。
床に落ちたまま、呼吸がうまく戻らない。
背中に残る圧の感覚が消えず、まだ棒で押さえつけられているような錯覚が続いている。
吸うたびに肋が軋む。
吐くたびに、喉の奥で引っかかった声が小さく漏れる。
「……っ……は……」
声を出していいはずなのに、出し方を忘れている。
さっきまで“出したら罰”だったものが、急に許可されても、身体が理解しない。
手をついて起き上がろうとして、力が抜ける。
指先に力が入らない。
視界の端で、ドアノブが動いた。
カチャ。
開いた隙間から差し込む廊下の光が、やけに白い。
「……まだ、いるのか」
日下部だった。
いつもの声。
けれど、少しだけ低く抑えられている。
遥は反応できない。
顔を上げるだけで、さっきの“確認”の言葉が頭の中で反復する。
――今日の違反は自分の責任です。
――俺です。
口が、勝手に動きかける。
「……っ違……」
違う、と言おうとしたのか。
それとも、また“違反”を言い直そうとしたのか。
自分でもわからないまま、声が途切れる。
日下部は一歩だけ中に入って、扉を閉めた。
外から見えないように。
「……立てるか」
短い問い。
手は伸ばさない。
触れれば壊れると分かっているみたいに、距離を保ったまま。
遥は、少しだけうなずこうとして、止まる。
その動作すら“誰かに見られている気がする”。
許可を取らないと動けない感覚が、まだ抜けない。
「……大丈夫」
掠れた声。
明らかに大丈夫ではない声音。
それでも、それしか言えない。
日下部は、少しだけ目を伏せた。
「嘘つくな」
強い言い方ではない。
けれど、逃がさない響きだった。
「……さっき、聞こえてた」
その一言で、空気が変わる。
遥の肩が、わずかに震える。
聞かれていた。
あの声を。
抑えきれなかった、あの断片を。
恥ずかしさでも、怒りでもなく、
ただ“知られた”という事実が、内側を削る。
「……別に」
否定しようとした言葉が、途中で崩れる。
別に、なんでもない。
そう言い切るには、身体の痛みがあまりにも生々しい。
「……見てたわけじゃない」
日下部は続ける。
「でも、聞こえた分だけでも……十分だった」
拳を握る音が、小さく鳴る。
「なんで、ああいうの、黙って受けてんだよ」
責める声じゃない。
でも、問いとしては鋭すぎる。
遥は答えない。
答えられない、が正しい。
理由なんて、ひとつじゃない。
逆らえば増える。
逃げれば追われる。
声を出せば、次はもっと深く抉られる。
全部知ってるから、黙るしかない。
沈黙が続く。
日下部は、それ以上は踏み込まなかった。
「……帰るぞ」
それだけ言って、扉に手をかける。
命令でも、提案でもない。
ただ、“一緒に外に出る”という選択肢を置く言い方。
遥は数秒遅れて、ゆっくりと立ち上がる。
足に力が入らず、壁に手をつく。
その動きに、日下部は一瞬だけ視線を寄越すが、やっぱり触れない。
距離を保ったまま、扉を開ける。
廊下に出ると、夕方の光が差し込んでいた。
さっきまでの空間が嘘みたいに、普通の学校の色をしている。
誰もいない廊下を、二人で歩く。
足音だけが響く。
途中、階段の前で、遥の足が止まった。
わずかに、呼吸が乱れる。
降りるだけなのに。
それだけの動作なのに、身体が拒否する。
日下部が、横で立ち止まる。
「……降りれるか」
短く。
遥は、少しだけ唇を噛んでから、頷く。
そのまま、一段ずつ降りていく。
足を踏み外さないように、ゆっくり。
途中で、手すりを握る指が震えた。
そのときだった。
袖が、軽く引かれた。
無意識の動き。
遥自身も気づいていないくらいの、ほんのわずかな力。
日下部の服を、指先で掴んでいた。
すぐに離そうとして、しかし力が抜けない。
そのまま、一歩進む。
日下部は、視線を落とさない。
気づいていないふりをする。
けれど、歩幅だけが、ほんの少しだけ遅くなる。
合わせるために。
階段を降りきるまで、
その指は、離れなかった。