テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
扉が閉まる音がして、足音が遠ざかる。 それでも、すぐには動けなかった。
床に落ちたまま、呼吸がうまく戻らない。
背中に残る圧の感覚が消えず、まだ棒で押さえつけられているような錯覚が続いている。
吸うたびに肋が軋む。
吐くたびに、喉の奥で引っかかった声が小さく漏れる。
「……っ……は……」
声を出していいはずなのに、出し方を忘れている。
さっきまで“出したら罰”だったものが、急に許可されても、身体が理解しない。
手をついて起き上がろうとして、力が抜ける。
指先に力が入らない。
視界の端で、ドアノブが動いた。
カチャ。
開いた隙間から差し込む廊下の光が、やけに白い。
「……まだ、いるのか」
日下部だった。
いつもの声。
けれど、少しだけ低く抑えられている。
遥は反応できない。
顔を上げるだけで、さっきの“確認”の言葉が頭の中で反復する。
――今日の違反は自分の責任です。
――俺です。
口が、勝手に動きかける。
「……っ違……」
違う、と言おうとしたのか。
それとも、また“違反”を言い直そうとしたのか。
自分でもわからないまま、声が途切れる。
日下部は一歩だけ中に入って、扉を閉めた。
外から見えないように。
「……立てるか」
短い問い。
手は伸ばさない。
触れれば壊れると分かっているみたいに、距離を保ったまま。
遥は、少しだけうなずこうとして、止まる。
その動作すら“誰かに見られている気がする”。
許可を取らないと動けない感覚が、まだ抜けない。
「……大丈夫」
掠れた声。
明らかに大丈夫ではない声音。
それでも、それしか言えない。
日下部は、少しだけ目を伏せた。
「嘘つくな」
強い言い方ではない。
けれど、逃がさない響きだった。
「……さっき、聞こえてた」
その一言で、空気が変わる。
遥の肩が、わずかに震える。
聞かれていた。
あの声を。
抑えきれなかった、あの断片を。
恥ずかしさでも、怒りでもなく、
ただ“知られた”という事実が、内側を削る。
「……別に」
否定しようとした言葉が、途中で崩れる。
別に、なんでもない。
そう言い切るには、身体の痛みがあまりにも生々しい。
「……見てたわけじゃない」
日下部は続ける。
「でも、聞こえた分だけでも……十分だった」
拳を握る音が、小さく鳴る。
「なんで、ああいうの、黙って受けてんだよ」
197
2,749
責める声じゃない。
でも、問いとしては鋭すぎる。
遥は答えない。
答えられない、が正しい。
理由なんて、ひとつじゃない。
逆らえば増える。
逃げれば追われる。
声を出せば、次はもっと深く抉られる。
全部知ってるから、黙るしかない。
沈黙が続く。
日下部は、それ以上は踏み込まなかった。
「……帰るぞ」
それだけ言って、扉に手をかける。
命令でも、提案でもない。
ただ、“一緒に外に出る”という選択肢を置く言い方。
遥は数秒遅れて、ゆっくりと立ち上がる。
足に力が入らず、壁に手をつく。
その動きに、日下部は一瞬だけ視線を寄越すが、やっぱり触れない。
距離を保ったまま、扉を開ける。
廊下に出ると、夕方の光が差し込んでいた。
さっきまでの空間が嘘みたいに、普通の学校の色をしている。
誰もいない廊下を、二人で歩く。
足音だけが響く。
途中、階段の前で、遥の足が止まった。
わずかに、呼吸が乱れる。
降りるだけなのに。
それだけの動作なのに、身体が拒否する。
日下部が、横で立ち止まる。
「……降りれるか」
短く。
遥は、少しだけ唇を噛んでから、頷く。
そのまま、一段ずつ降りていく。
足を踏み外さないように、ゆっくり。
途中で、手すりを握る指が震えた。
そのときだった。
袖が、軽く引かれた。
無意識の動き。
遥自身も気づいていないくらいの、ほんのわずかな力。
日下部の服を、指先で掴んでいた。
すぐに離そうとして、しかし力が抜けない。
そのまま、一歩進む。
日下部は、視線を落とさない。
気づいていないふりをする。
けれど、歩幅だけが、ほんの少しだけ遅くなる。
合わせるために。
階段を降りきるまで、
その指は、離れなかった。