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麗太
海の紅月くらげさん
王宮の夜は、昼よりも静かだった。
昼間は人の声と足音が絶えない回廊も、夜になると広い石の床がわずかな音を反響させるだけになる。
遠くで衛兵が交代する音が聞こえるが、それさえすぐに消える。
王宮という巨大な建物は、夜になるとまるで眠っている生き物のように息を潜める。
エリュネは回廊をゆっくり歩いていた。
灯りは少ない。
壁に等間隔で置かれた燭台の火が、床に長い影を落としている。
昼間の会議のことを思い出していた。
貴族たちの視線、疑い、そして王太子の言葉。
――俺は彼女を選び続ける。
あの言葉は重かった。
守るという宣言ではない。
愛を誇示する言葉でもない。
ただ「選び続ける」と言った。
それは、終わりのない行為だった。
回廊の窓から夜空が見える。
星がいくつも浮かんでいる。その中には、色を持たない光も混ざっていた。
無色星は以前より増えている。
観測塔の記録は毎日更新されているが、もはや王宮の誰もがその変化を実感していた。
エリュネはしばらく空を見てから、歩き出した。
王太子の部屋の前で足を止める。
扉の向こうには灯りがある。まだ起きているらしい。
ノックをする。
「どうぞ」
中から声が返る。
エリュネが扉を開けると、王太子は机の前に座っていた。
書類がいくつも広がっている。
だが彼はペンを置き、少し驚いたように顔を上げた。
「珍しいな」
「起きていると思ったので」
エリュネは部屋に入る。
窓が開いていて、夜風が入ってきていた。
机の上の紙がわずかに揺れる。
「会議の後、忙しいと思いました」
「忙しいのは確かだ」
王太子は椅子の背にもたれた。
「だが来客を断るほどではない」
エリュネは少し考えてから言った。
「今日のことですが」
「隔離の話か」
「はい」
王太子は軽く頷いた。
「気にするなと言いたいところだが、難しいだろうな」
「いいえ」
エリュネは首を振る。
「慣れています」
その言葉はいつもと同じだった。
だが王太子は少し眉をひそめる。
「慣れるものか」
「慣れます」
エリュネは静かに答えた。
「人は繰り返しに慣れます」
王太子はしばらく黙っていた。
それから言う。
「俺は慣れてほしくない」
エリュネは少し驚いたように彼を見る。
「なぜですか」
「それは」
王太子は言葉を探した。
「普通ではないからだ」
少し考えてから続ける。
「疑われることが日常になるのは、普通ではない」
エリュネは小さく息をついた。
「普通とは何でしょう」
「さあな」
王太子は肩をすくめる。
「だが少なくとも、王妃が国家の危険物のように扱われることではない」
沈黙が落ちる。
外から風が吹き込み、窓のカーテンがわずかに揺れた。
星の光が部屋の床に細く差し込んでいる。
エリュネはその光を見ながら言った。
「殿下は」
王太子が顔を上げる。
「なぜ私を選び続けるのですか」
彼はすぐには答えなかった。
質問は単純だ。だが言葉にするのは難しい。
しばらくしてから言う。
「理由が必要か」
「人は普通、理由で選びます」
「そうかもしれない」
王太子は窓の外を見る。
夜空には星がいくつもある。その中に色のない光も混ざっている。
「だが」
彼は続ける。
「選んだ後は違う」
エリュネは黙って聞いている。
「最初は理由がある。
だが長く続く関係は、理由では維持できない」
彼は椅子から立ち上がり、窓の近くに行った。
「人は変わる。
状況も変わる。
理由も変わる」
夜空を見上げる。
「それでも続く関係は」
彼は言った。
「選び続けているだけだ」
エリュネは少しの間、何も言わなかった。
それから静かに言う。
「それは大変ですね」
王太子は笑った。
「そうだな」
振り返る。
「だから面白い」
そのとき、遠くで鐘が鳴った。
王宮の深夜を知らせる鐘だ。
低い音が夜の空気にゆっくり広がる。
エリュネは窓の外を見た。
無色星がまた一つ、静かに光っている。
「殿下」
「何だ」
「もし星がすべて消えたら」
王太子は少し考えた。
「消えると思うか」
「分かりません」
「そうか」
彼は窓の外を見たまま答える。
「消えても同じだ」
「同じ?」
「星がなくても」
彼は言う。
「俺は同じことをする」
エリュネは何も言わなかった。
その夜、観測塔では新しい記録が追加された。
王宮の上空に無色星がもう一つ現れたという報告だった。
だが観測官は少し首をかしげていた。
星は特定の人物の上に現れることが多い。王太子や王妃の近くなど。
しかし今回の位置は違っていた。
記録に書かれた場所は、王宮の庭園だった。
誰もいないはずの場所だった。
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