テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
廊下に残った湿気のような笑い声が、遠ざかる足音とともに消えていく。
階段の上から聞こえた女子の笑いも、やがて闇に溶けた。
静寂。
遥は、しばらくその場から動けなかった。
タオルを握る手がじんじん痺れている。落とされたとき床にぶつけた膝も熱を持って痛い。
けれど、そのどれよりも苦しいのは息だった。空気を吸うたびに喉の奥が焼けるみたいに痛む。
(……鍵、閉められてんのに)
(どうしろってんだよ俺)
物置──服があるはずの場所。
だがいとこたちの言葉が脳内で何度も反復する。
“外の物置。鍵閉めたけどね”
“明日の朝どうするの?”
遥は廊下に手を突いてようやく立ち上がった。
足が震え、膝が抜けそうになる。タオルは結び直す余裕もなく、ただ握りしめて体に当てているだけ。
暗い廊下を戻る。
歩くたびに冷気が肌に刺さる。
電気はつけられない。誰かが起きてくる。誰かにまた見られる。
(……やべぇ。戻れねぇ)
部屋にも帰れない。
戻れば兄弟がいる。昼間の“尋問”の続きが来る。
また命令され、正座させられ、何か言われる。
(……無理だ。戻ったら終わる)
遥は震える肩を押さえるようにタオルを抱え、階段の下、物置へ通じる勝手口の方へ足を向けた。
行っても意味はない。鍵を持っているのはいとこだ。
開くわけがない。
それでも──確認しないと、壊れてしまいそうだった。
勝手口前。
外は真っ暗だった。
ガラス越しに見える庭と物置。
風もなく、ただ無音の夜。
遥はドアに手をかけた。
外へ出る勇気は出ない。誰かに見つかる方が怖い。
それでも視線は、物置の黒い影を捉え続ける。
(あれの中……俺の服)
(そこにあるのに……)
胸がひゅっと縮む。
涙が出そうになるが、泣く音すら出せない。誰かが来る。
遥はゆっくり、壁に背を預けて座り込んだ。
床の冷たさが背骨を這い上がる。
両手で顔を覆う。
タオルがずり落ちかけて慌てて押さえる。
その“慌てる”という反応すら、いとこたちに笑われたのを思い出し、胃がひっくり返りそうになる。
(逃げても、守っても、反抗しても、何しても全部笑われるだけかよ)
(だったら……どうすりゃいいんだよ)
答えは、どこにもない。
遥はゆっくり立ち上がり、廊下の影を見つめた。
廊下の奥には自分の寝る部屋がある。
でもそこまで戻る道も、地獄にしか見えない。
兄弟がいる。
襖一枚向こうに“大人”がいる。
どちらにも頼れない。どころか、どちらも全部敵。
(……今日、一人きりになれるの、今だけだろ)
(でも……どこにも居場所ねぇ)
暗い廊下に、裸足の足音だけが小さく響く。
遥はゆっくりと廊下の角に身体を丸めるように座り、膝を抱えた。
タオルが落ちないように片手で押さえながら、震える息を押し殺す。
(……朝になったら……また地獄か)
(物置まで行く道も、絶対なんかされる)
(……逃げ道、ねぇじゃん)
肩が震えた。
それが寒さなのか恐怖なのか、自分でもわからない。
ただ一つ確かなこと。
(いま、家中の誰ひとりとして、俺を人扱いしてねぇ)
遥は、声を出せないまま、深夜の廊下でただ目を閉じるしかできなかった。