フロアに出た瞬間、今日は混む、と分かった。
音が少し高い。
女の子たちの笑いが半音上がっている。
奥の席を見る。
あの人がいる。
いつもの距離の人。
呼ばれない。
でも目は合う。
そのまま別の席へ。
「やっと来た」
軽い声。
源氏名を呼ばれる。
「ナナちゃん」
振り向く。
少しだけ笑い方が柔らかくなる。
自分でも分かるくらい。
席につく。
会話が速い。
呼吸が合う。
その途中で、
視線を感じる。
奥の席。
さっきの人が、
こちらを見ていないふりをしている。
グラスの氷が溶けていない。
テンポが少しだけズレる。
「どうしたの」
「なんでもない」
嘘じゃない。
でも本当でもない。
そのとき、
入口の空気が変わる。
新しい客。
フロアを一度見て、
私の席でほんの一瞬止まる。
評価する目。
黒服が近づく。
「あとで戻す」
分かってる。
席を立つ。
「またあとで」
源氏名をもう一度呼ばれる。
さっきより軽い。
奥の席に戻る。
あの人は、
グラスにまだ触れていなかった。
「混んでるね」
いつもの声。
短い。
余計なことを言わない。
「そうですね」
それだけで会話が終わる。
でも終わらない。
さっきの席の空気が、
まだ少し残っている。
「さっきの」
言いかけて、
彼はやめた。
代わりに氷を動かす。
カラン、と音がする。
「よく来るの」
質問なのか、確認なのか、
分からない言い方。
「来てくれる人です」
答えになっていない。
分かってて、
そう答える。
彼は、
それ以上聞かない。
聞かないのに、
少しだけ間がある。
遠くで、
名前を呼ばれる。
源氏名。
さっきの席。
振り向かない。
振り向かないまま、
グラスを持つ。
「呼ばれてるよ」
軽く言う。
責めない声。
「大丈夫です」
嘘でもない。
本当でもない。
彼は、
少しだけ笑った。
「そう」
それだけ。
でも、
その“そう”のあとに
沈黙が残る。
その沈黙が、
今日いちばん重かった。






