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フロアに出た瞬間、視線の流れで分かる夜がある。
忙しいとか、フリーが多いとか、そういう分かりやすいものじゃない。
もっと細い、目に見えない圧みたいなもの。
今日は、誰かが誰かを見ている夜だった。
席につく前に、黒服が小さく合図をする。
奥のボックス。
あの人だと思って歩く。
近づくにつれて、空気が少し静かになる。
テーブルの端に座っていたのは、
いつも同じ距離で話す人だった。
背もたれに深く寄りかからない。
グラスもすぐには持たない。
来るたびに、同じ位置にいる。
「こんばんは」
私が言うと、
彼は軽くうなずいた。
「こんばんは」
短い。
必要な分だけの声。
その距離に、私は少し安心する。
近づかない人は、踏み込まない。
踏み込まない人は、壊さない。
グラスに氷を足す。
カラン、と音がする。
「混んでるね」
「今日は、ちょっと」
それ以上は続かない。
続かないままでいい会話がある。
そのとき、
横から声が入った。
「ナナちゃん、いた」
振り向かなくても分かる声。
軽い調子。
距離を測らない人。
別のテーブルから、
手を上げている。
私は一瞬だけ迷って、
黒服を見る。
黒服は小さく頷いた。
同席。
移動する前に、
目の前の彼を見る。
彼は、何も言わない。
止めない。
促しもしない。
ただ、グラスに触れる指が、
ほんの少しだけ止まった。
その動きが、
妙に残る。
隣の席に移る。
呼んだ本人は、
すでに笑っている。
「忙しいじゃん」
「おかげさまで」
軽く返す。
この人とは、テンポが違う。
会話が前に出る。
間が埋まる。
考える時間がない。
「今日さ、あとでちょっといい?」
「あとで?」
「うん、終わり際」
意味を濁した言い方。
濁してるけど、分かる。
私は曖昧に笑う。
「タイミング合えば」
逃げ道のある返事。
そのとき、
視線を感じる。
さっきの席。
奥のボックス。
あの人が、こちらを見ている。
見ているというより、
見ていないふりで把握している。
ああいう視線は、
店の中で一番静かに強い。
さらに奥の席から、
もう一人がこちらを見る。
あの人は、見るのを隠さない。
評価する目。
観察する目。
人を面白がる目。
三方向。
私は、
一瞬だけ息を整える。
こんなふうに
視線が重なる夜は、
あまり多くない。
軽い人が言う。
「今日、テンション低くない?」
「普通です」
「普通って一番怖い」
笑う。
周りも笑う。
でも、
奥の席の静かな人は笑っていない。
さらに奥の観察する人は、
笑っているけど、目が笑っていない。
私はグラスを持つ。
手が少しだけ冷たい。
なぜだろう、と思う。
怖いわけじゃない。
困ってるわけでもない。
ただ、
それぞれの人の前で
自分の温度が少しずつ違うことに、
気づいてしまったからだ。
軽い人の前では、
少し明るくなる。
話す量が増える。
考えなくていい。
観察する人の前では、
言葉を選ぶ。
見られていると分かる。
評価されていると分かる。
そして、
あの人の前では。
私は、
少しだけ静かになる。
理由は分からない。
楽だからか。
危ないからか。
どっちでもないのか。
分からないまま、
グラスを置く。
「あとでさ」
軽い人がまた言う。
「外、寒いらしいよ」
「そうですね」
「駅まで送ろうか」
冗談みたいに言う。
でも半分本気。
私は笑う。
「大丈夫です」
その会話を、
奥の席の彼が聞いている。
聞いているけど、
口を挟まない。
その沈黙が、
一番重い。
観察する人が、
ゆっくり立ち上がる。
席を変える。
同じテーブルに入ってくる。
「楽しそうだね」
軽く言う。
軽くない声で。
三人になる。
空気が少し変わる。
私は、
自分の立ち位置を
一瞬で測り直す。
誰にどう見られているか。
どこまで踏み込まれているか。
どこまで踏み込んでいるか。
そのとき、
奥の席の彼が立った。
延長しない。
会計。
静かに出ていく。
目は合わない。
合わないまま、
扉が閉まる。
胸の奥が、
少しだけ空く。
なんでだろう、と思う。
別に、
何も起きていない。
ただ席を立っただけ。
それだけ。
それだけなのに、
温度が一段下がる。
残された席は、
妙に賑やかだった。
でも、
少しだけ寒い。
私は笑う。
仕事の顔で。
笑いながら、
さっき出ていった背中を思い出す。
追いかけたいわけじゃない。
引き止めたいわけでもない。
ただ、
次に来たとき、
同じ距離でいられるかどうか。
それだけが、
少し分からなくなっていた。