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駅の改札を出ると、夜の温度が少しだけ下がっていた。
仕事帰りの人の流れに混ざって歩いていると、視界の端に見慣れた背中が入る。
向こうも気づいたみたいで、少しだけ歩幅を緩める。
立ち止まらない。振り返らない。
でも、待っているのは分かる。
「お疲れ」
隣に並ぶと、そう言われる。
源氏名でも、本名でもない呼び方。
ただの「お疲れ」。
「そっちも」
それだけで会話が成立する。
約束はしていない。
連絡もしていない。
でも、週に何度か、こうして会う。
偶然みたいに。
最初に会ったとき、彼は店の名前を知っていた。
知っていて、何も言わなかった。
聞きもしなかった。
ただ「遅いね」とだけ言って、駅まで一緒に歩いた。
それ以来だ。
店に来たことがあるのかは、分からない。
でも、知っている空気はある。
あの街の夜を知っている人の目。
「今日、寒いね」
彼が言う。
季節の話しかしていない。
仕事の話も、店の話も、ほとんどしない。
「うん」
ヒールの音が、アスファルトに軽く響く。
店の中では気にならない音が、外だと少しだけ大きい。
信号待ちで止まる。
並んで立つ。
触れない距離。
「忙しかった?」
聞き方が曖昧だ。
何の仕事か、明確に言わない。
「まあ」
それで十分通じる。
彼は、店に来ない。
来ようと思えば来られるはずなのに、来ない。
その理由を聞いたことはない。
聞かない方がいい気がしている。
もし来たら、関係が変わる。
それが分かっている人の距離。
「送ろうか」
駅の階段の前で言われる。
毎回言うわけじゃない。
たまにだけ。
「大丈夫」
毎回断るわけでもない。
今日は断る日。
「そっか」
それで終わる。
引かない。
詰めない。
改札を通るとき、彼は外側に残る。
中には入ってこない。
「じゃ」
「うん」
それだけ。
ホームに降りて、電車を待つ。
スマホは見ない。
通知が来ていないことを確認する必要はない。
さっきまで隣にいた人は、
指名もしないし、延長もしないし、
ドリンクも頼まない。
でも、あの人と歩いた後の静けさは、
店のどの席より長く残る。
安全だと思う。
たぶん、一番。
何も求められていない感じ。
何も与えなくていい感じ。
それが、楽。
――楽なものは、長く続く。
長く続くと、
なくなったときに困る。
電車が来る。
ドアが開く。
乗り込む。
窓に映る自分の顔が、
少しだけ仕事の顔じゃない。
あの人は、店に来ない。
来ないまま、関係が続いている。
来ないから、
壊れない。
来ないから、
進まない。
どっちがいいのかは、
まだ分からない。
ただ次に会っても、
たぶん同じ距離で歩く。
偶然みたいに。